泊城(とまりじょう)
所 在 地 田辺市芳養町井原 標 高 25m 比 高 不明 築 城 者 湯河氏 築 城 年 室町時代 形 式 丘城 遺 構 なし 登城時間 5分
歴 史泊城は亀山城主湯河氏の庶子家芳養湯河氏の居城であり、本宮や熊野の通じる交通の要衝に位置する。天文22年(1553年)守護職畠山種長は、実父である畠山尚順を広城から駆逐した報復として、龍松山城主山本広信に命じ泊城を攻め、八王子城を山本氏に譲り渡す条件で和議を結んだ。 天正元年(1572年)織田信長は宇治槇島城に拠った足利義昭を攻めて京から追放、ここに室町幕府は滅亡するが、その後義昭は奉公衆である湯河氏を頼って泊城へ入城し約1年留まり、国人衆の玉置氏らの決起を促したが期待したように動かず、失意のまま毛利氏の領国である鞆の浦へと退去していった。 天正13年(1585年)羽柴秀吉南征軍に城を追われた湯河直春は泊城に落ちてきたが、ここも杉若越後守、藤堂与左衛門に攻めら龍之山城(田辺市)に退去したという。 その後湯河直春、山本康忠らは和平交渉のため豊臣秀長に謁見したが相次いで謀殺され、泊城は杉若越後守が入城したが天正18年(1590年)上野山城(田辺市)に移ったため泊城は廃城となった。 |
現 状国道42号線大屋トンネルの上が城跡である。昭和26年の踏査資料によると泊城は本丸主曲輪を始め四段からなる連格式城郭で、主曲輪には一定の間隔を置いて基石が並べられ、南北朝頃と思われる軒丸瓦や平瓦が発見された。 泊城は南北朝時代から戦国末期まで約250年ほど利用されていた県内最大規模の中世丘城であったが、昭和45年に開発業者により削り取られてしまい遺構は完全に消滅した。 |