亀山城(かめやまじょう)
所 在 地 御坊市湯川町丸山 標 高 117m 比 高 113m 築 城 者 湯河光春 築 城 年 南北朝時代 形 式 山城 遺 構 曲輪 土塁 虎口 石垣 登城時間 20分
歴 史湯河氏の祖は甲斐武田一族である武田忠長で、甲斐の国を追われ、道ノ湯川(田辺市本宮町道湯川)に来住したと伝わる。忠長は領民らを苦しめていた岩上峠に出没する山賊を討ち取り、六波羅探題より恩賞として牟婁芳養荘を与えられ内羽位城(田辺市)を築いた。 3代目光春は安定した芳養荘を基盤に日高地方へ進出し、周辺領主を屈服させ居城亀山城を築いた。 11代直光は現在の紀央館高校や湯川中学校付近に東西225m、南北200m、周囲を二重の水堀で囲まれた各地の守護所に匹敵する規模と構造をもった小松原館を築いた。 しかし天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍が紀州へ進攻すると、徹底抗戦を主張する12代直春は娘婿である手取城主玉置直和に同調を求めたが、直和が南征軍に帰順したことに怒った直春は手取城(日高川町)に兵を向けたため、直和は秀吉軍に援軍を要請し、大軍が迫ったため直春は亀山城や小松原館を焼き払い奥熊野へ退去し山岳ゲリラ戦を展開した。その後両軍は和睦し天正14年(1586年)直春や龍松山城主山本康忠らは大和郡山城で羽柴秀長に謁見後謀殺されてしまったという。 なお直春の子丹波守光春は父の死後秀長より知行3千石を給わり、秀長没後は浅野氏に仕え安芸国に移って宮島奉行を勤めたという。 |
現 状室町幕府奉公衆であり、紀南の旗頭であった湯河氏の居城である亀山城は日高平野を一望する標高118mの山頂に築かれている。城跡までは麓の丸山集会所に車を駐め、そこから道標に従って農道を登ると到達する。 主曲輪は、東西40m、南北25mの規模で、周囲を高土塁が巡り、南側下方にある二ノ曲輪の西側土塁の切れ間が虎口である。 主曲輪北側下方には三ノ曲輪があり、その下方にも階段状に曲輪が配置されている。 現在亀山城周辺は果樹園等に開墾され全貌は分からないが、当時は亀山全体に曲輪が配置され、惣廻が2kmほどの県内最大規模の山城であったという。 なお亀山城は平成28年3月16日和歌山県指定文化財(史跡)に指定されている。 |
写 真 |
主曲輪 | 主曲輪土塁 |
石碑 | 供養塔 |
二ノ曲輪 | 二ノ曲輪土塁 |
二ノ曲輪櫓台 | 二ノ曲輪土塁石垣 |
二ノ曲輪虎口 | 三ノ曲輪 |
復元想定図 | 縄張図 |
小松原館跡 | 小松原館水堀跡 |
経 路 |