龍松山城(りゅうしょうざんじょう)

所 在 地  西牟婁郡上富田町一ノ瀬
標  高  121m
比  高   90m
築 城 者  山本判官忠行
築 城 年  南北朝時代
形  式  山城
遺  構  曲輪 土塁 堀切 横堀 石垣 
登城時間  15分
 

歴 史

  龍松山城は現在の上富田町を中心に、白浜町富田から田辺市東部を支配下に治めていた紀南を代表する有力国人であった山本氏の居城である。     
 初代忠行は北畠氏の家臣として勢州(三重県)一之瀬城の城代を務めた後、櫟原荘の地頭としてこの地を治めた。
 2代目城主忠継が城郭を修築したとき、城内にあった巨大な老松が龍が寝たような姿に似ていたことから龍松山城と名付けたという。
 山本氏は南北朝時代には南朝方として各地を転戦、北朝方の湯河氏や小山氏らと戦っている。

 南朝方が衰退するにつれて北朝方に転じた山本氏は、湯河氏、玉置氏らと共に幕府奉公衆の一員に編成された。
 勢力の安泰を得た山本氏は、富田川流域や田辺・日高地方に地歩を築き、熊野衆を代表する有力国衆へと成長していく。
 戦国時代になると隣接する安宅氏との間で緊張が高まり、高瀬要害山城(白浜町)や蛇喰城(上富田町)などで激しい戦いを繰り広げた。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍の部将である杉若越後守、藤堂高虎、仙石権兵衛、青木勘兵衛、宇野若狭らに攻められ、当主山本康忠を中心とした熊野地方の国人や亀山城を追われてきた湯河氏らと共に、富田川周辺や山岳部で3ヶ月間戦い続けたという。
 この戦いは和睦によって終止符が打たれたが、和睦交渉のため豊臣秀長の居城大和郡山城に赴いて謁見後の帰路途中で、紀和の国境真土峠にある藤堂高虎の館で謀殺され、山本氏は滅亡した。

現 状

  国道311号沿いに城跡を示す大きな看板が掲げられ、そこから車で5分程で二ノ曲輪まで登ることが出来る。
 城跡は主曲輪とそれを取巻く二ノ曲輪から構成されて、主曲輪は南北80m、東西30mの規模で、周辺を高さ1m程の土塁で囲まれている。
 二ノ曲輪南側が大手門跡で、南側から西側にかけて土塁と、北側には屋敷跡の石垣が残され、北東尾根は巨大な堀切と、東側から南側にかけては横堀と段構えを組み合わせて防御性を高めている。
 
昭和初期頃までは空堀や井戸跡がほぼ原型のまま残されていたようだが、現在は果樹園や道路建設により一部破壊されているが、規模及び遺構とも紀南を代表する城跡である。
 現在城跡には多くの桜の木が植えられ、桜の名所として沢山の人々が訪れている。



写 真

                                 
案内看板 二ノ曲輪にある案内板
主曲輪 主曲輪
主曲輪土塁 主曲輪より二ノ曲輪虎口方面
二ノ曲輪虎口石垣 二ノ曲輪屋敷跡
二ノ曲輪土塁 南側横堀
東側堀切 井戸跡
山本氏墓所 富田川方面遠景


経 路

                                                   

                                     

地 図




紀南地方の城跡