高瀬要害山城(たかせようがいやまじょう)
所 在 地 西牟婁郡白浜町高瀬 標 高 85m 比 高 50m 築 城 者 吉田秀春(安宅氏家臣) 築 城 年 明応3年(1494年) 形 式 山城 遺 構 曲輪 土塁 石垣 堀切 竪堀 登城時間 10分
歴 史大辺路は富田坂から安居辻松峠を経由して安宅氏領内である田野井に通じる最短ルートであり、高瀬要害山城は富田荘南端に位置し、富田坂登り口を見下ろす位置に築かれている。築城者は安宅氏家臣吉田春秀であり、生馬村(上富田町)を与えられこの地に城を築いたという。 この場所は安宅氏にとって山本氏との境目となり絶えず争いが繰り広げら、明応3年(1494年)10月に山本氏がこの城に来襲したが、これを退けている。 高瀬要害山城は安宅氏にとって山本氏の動向を常に監視する重要な拠点であるため、防御性が高い縄張りとなっている。 |
現 状高瀬要害山城は紀勢自動車道富田坂第二トンネルの直上にあり、国道42号線一目坂トンネルを過ぎて道を左に折れた山道から行くことが出来る。麓の空地に車を停めて行そこから遊歩道が整備されている。城跡は主曲輪を中心に東西に曲輪を配している。主曲輪は東西25m、南北18mの規模で、防御の要である二ノ曲輪は南北27m、東西11mあり、土塁で囲まれ西側には虎口が開いている。 二ノ曲輪から斜面を下ると横堀と畝状竪堀群が計12本掘られ、富田坂より攻め込む敵を想定した構造である。 畝状竪堀群は戦国末期の技法であることから、天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めに際し大規模な改修が行われたのであろう。 東側は三ノ曲輪と尾根を遮断する堀切が数か所あり、三ノ曲輪直下の堀切には投石用の川原石が大量に残されている。 白浜町教育委員会のよる発掘調査が行われ、二ノ曲輪からは当時の鍛冶炉跡や、古銭、備前焼の破片なども出土している。 要害山城は規模は大きくないが、遺構の保存状態および築城技法に優れた城跡である。 |
写 真 |
登城口 | 案内看板 |
東側掘切 | 主曲輪(発掘調査当時) |
二ノ曲輪(発掘調査当時) | 二ノ曲輪 |
土橋 | 主曲輪基石 |
西側畝状竪堀群 | 西側畝状竪堀群 |
富田方面遠景 | 東側尾根より城跡 |
経 路 |