内羽位城(ないばいじょう)

所 在 地  田辺市中芳養
標   高  40m
比   高  不明
築 城 者  湯河忠長
築 城 年  室町時代
  式  丘城
遺   構  なし   
登城時間  −
 

歴 史

 武田範長の末子として甲斐の奈古に生まれた三郎忠長が、罪に問われ熊野の奥地道湯河(現在の田辺市中辺路町道湯川)に配流(1300年前後か)された。
 しかし武芸に優れた忠長は、住民を度々苦しめていた岩神峠に出没する山賊退治の功績により、六波羅探題より牟婁郡芳養荘を与えられ内羽位城を築いたという。
 芳養荘に進出した忠長は、道湯河の庄司の娘を妻として迎え、名を湯河と改め2代目光長は現在の芳養川流域に土井山城峰山城、曽和城、横手山城(田辺市)らを築くことにより領地の安定化を図り、芳養の都と称されるほどの繁栄であった。
 3代目光春の時代になると芳養荘を基盤して日高地方に進出し、亀山城(御坊市)を築き、日高、牟婁郡の主要部分を治める大勢力へと躍進した。

 

現 状

  内羽位城の遺構については、昭和8年頃まで堀跡、馬場が確認できたようであるが、その後果樹園への開墾や農免道路(現在は県道35号線)建設によりその大部分は破壊され、僅かに曲輪らしき平坦地が残されている。 
  田辺市史によると堀跡は城跡南端にあり、延長40m、幅2.5m、深さ1.6mの規模であったようだが現在は消滅している。
  また内羽位城の周辺には原田垣内、稲井垣内、公門垣内という字名があり、この周辺が城跡であったことが伺える。  

 

地 図




紀南地方の城跡