手取城(てどりじょう)

所 在 地  日高郡日高川町和佐
標   高  171m
比   高  118m
築 城 者  玉置氏
築 城 年  南北朝時代
  式  山城
遺   構  土塁 石垣 堀切 空堀     
登城時間  20分
 

歴 史

 玉置氏の祖は、平資盛の子で源平合戦時に熊野に逃れ、玉置山荘司となった蔦野十郎資平という。
 南北朝時代の文和元年(1352年)ごろ、北朝方であった玉置氏一族である大宣が日高川を下って和佐に進攻し、先住者である川上則秋を滅ぼし、別所谷奥に手取城を築いた。 
 城名の由来は、自らの手で山崎城(日高川町)を攻略することができたので、「手取」と名付けたといい、山地玉置氏に対して、和佐玉置氏と称した。
 その後領地を拡大し、野口村(御坊市)から川上福井村(田辺市龍神村福井)までと有田郡津井村(広川町津井)まで1万6千石に及んだ。
 また日高川を挟んで隣り合わせである亀山城主湯河直春とは協調関係にあり、湯河直春の娘が玉置直和に嫁ぐなど親密な関係にあったが、天正13年(1585年)羽柴秀吉が紀州に攻め入った際、徹底抗戦を主張した義父である直春は娘婿の直和に対して同調を求めたが、直和が秀吉方に与しようとしたため、怒った直春は2百余人の軍勢で攻め寄せ、直和は坂ノ瀬に柵や壕を掘り備えたが敗れ、手取城は焼き払われ多くの家臣を失った直和は敗走した。
 その後直和は羽柴秀長に仕えたが、軍役が軽くすむと判断し石高を3千5百石と申告したため領地が大幅に減じられ、これを無念に思い家督を息子高直に譲って出家し高野山に登った。
 徳川の時代になり玉置氏は和佐の地を離れ、藤堂家や尾張徳川家に仕えたため手取城は廃城となった。
 

 

現 状

 手取城はJR和佐駅より北東1.5kmの別所谷奥にある標高171mの城山に築かれている。
 城跡までは舗装された山道により軽自動車であれば東の曲輪まで登ることが出来るが、幅が狭く落ち葉により滑りやすいため、、途中の駐車場の利用をお勧めする。
 手取城の主曲輪は最高所にあり、東西20m、南北40mの規模で、通称天守台と呼ばれ、今も基石の一部が残されている。
 二の曲輪は主曲輪の南下に位置し、素焼きの巴瓦や布目瓦が多く出土しており、現在「手取城」の石碑が建てられている。
 この城で最も広い東ノ曲輪は東西80m、南北15mあり、北東側には延長60m、高さ3mほどの大土塁があるり、当時は寺院が建てられていたようである。
 二ノ曲輪と空堀を挟んで西ノ曲輪があり、中央に2.5mほどの櫓台があり、ここからは支城の山野城が望める。また北側には蔀土塁があり、外部から見通せないように工夫されている。
 曲輪はさらに西側下方に及び5条の堀切と共に墓地跡もあるという。
 また主曲輪と西ノ曲輪を遮る空堀の側を「風呂谷」と呼ばれ、その東側に溜池跡とその直上にある水ノ手曲輪により守られ、今も石垣が残されている。
 手取城は東西500m、南北150mの範囲に及ぶ県内最大の巨大山城であり、日高川町の文化財指定を受けている。
 

写 真

                                 
登城口 東ノ曲輪大土塁
案内看板 主曲輪
主曲輪基石 二ノ曲輪
東尾根堀切 北側尾根堀切
北側尾根堀切 主曲輪切岸石垣
主曲輪切岸石垣 西ノ曲輪空堀
西ノ曲輪 西ノ曲輪蔀土塁
西ノ曲輪櫓台 西ノ曲輪から二ノ曲輪方面
墓石 亀山城方面遠景

経 路


   
                                

地 図






紀中地方の城跡