中峰城(なかみねじょう)

所 在 地  田辺市上秋津
標   高  367m
比   高  267m
築 城 者  愛洲資俊
築 城 年  不明
  式  山城
遺   構  曲輪 堀切 柱穴   
登城時間  1時間30分
 

歴 史

 目良氏は熊野別当湛増の末裔で、南北朝時代は北朝方として活躍し秋津荘を治めていた。
 その後周辺の南朝方である龍松山城主山本氏や衣笠城主愛洲氏らと戦い、現在の田辺市秋津町から上秋津を放棄し、奥部にある秋津川へ退き、居城中峰城を築いたという。
 目良氏は同じ北朝方であった紀南の旗頭であった湯河氏と行動を共にし、永禄5年(1562年)紀伊国守護畠山高政と三好長慶が対立し河内教興寺にて合戦が行われた。畠山氏の主力部隊として湯河直光を中心とする紀伊国人衆として目良氏も参戦したが大敗、多くのものが討死した。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍に攻められ、当主目良春湛は捕らえられ秋津川谷川に幽閉されたがその後許され、姓を榎本に改めた。
 なお目良氏は寛文2年(1662年)秋津組の大庄屋に任命され、宝暦9年(1759年)紀州徳川藩より地士として登用されたたという。
 

 

現 状

 田辺市内方面より県道29号線奇絶峡トンネルを抜け、道路が大きく迂回する左側脇道を登ると共同墓地駐車場があり、そこから梅畑と雑木林を登ると2段の腰曲輪と主曲輪がある。
 主曲輪は24m×20mほどの大きさで、西側に土塁と虎口があり、金毘羅山城下崎城(田辺市)方面へ至る西側尾根には堀切が1条掘られ、また東側から北側にかけて幅3mほどの腰曲輪が取り付く。
 中峰城は三方を深い谷に囲まれた尾根の先端にあり、地形を生かした防御性の高い城である。

写 真

                                 
登城口 主曲輪
標柱 主曲輪土塁
虎口 堀切
腰曲輪 殿屋敷城方面

地 図


 



紀南地方の城跡