衣笠城(きぬがさじょう)

所 在 地  田辺市中三栖
標   高  235m
比   高  210m
築 城 者  愛洲 経信
築 城 年  文永年間(1264年〜1275年)
  式  山城
遺   構  曲輪 堀切 土塁 石垣   
登城時間  30分
 

歴 史

 築城者は甲斐源氏新羅三郎義光の流れ武田清光の後胤であり、代々熊野警護職及び本宮山の社家として熊野神領の管掌にあたっていた愛洲経信とされている。
 経信は鎌倉幕府の記録役人も務めていたが、執権である北条時頼との確執から自領である南部荘の館に帰り、その後三栖荘の地頭も兼ねここに城を築いた。
 愛洲氏は南北朝時代には南朝方として活躍し、龍松山城主山本氏らと共に57年間の永きにわたり吉野朝を支えた。
 南北朝後、紀伊国守護畠山基国の実子義就と養子政長との家督相続が勃発した際に、政長方であった愛洲氏に対して義就方の日置久木城主小山家長に攻め込まれ落城するも、その後奪い返している。
 天正13年(1585年)秀吉の南征軍に攻められ衣笠城は落城、愛洲氏12代当主綱俊は雑賀に逐電したという。


現 状

 衣笠城は田辺湾や田辺市街地、また三栖、秋津が一望できる標高235mの山頂にある。
 城跡までは農道を登り主曲輪横の駐車場まで行くことが出来る。
 衣笠城は中世城郭では田辺市で最大規模を誇る城跡であったが、第二次世界大戦時に特攻隊司令部や、NHKの送信鉄塔(今は無い)が設置された際、工事用道路建設や敷地整備により遺構の一部が破壊されたが、主曲輪土塁や空堀、溜池跡が残されている。
 現在衣笠城は草刈りや桜の植栽らの整備が行なわれ、平成5年に田辺市指定文化財に指定されている。
   

写 真

                                 
主曲輪 主曲輪土塁
二ノ曲輪土塁 堀切
溜池跡 石段
案内看板 石垣
帯曲輪 竪堀


経 路

                                                   

    

                                     

地 図





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