脇田山城(わきたやまじょう)
所 在 地 田辺市中芳養 標 高 29m 比 高 17m 築 城 者 脇田氏(湯河氏家臣) 築 城 年 不明 形 式 丘城 遺 構 曲輪 土塁 虎口 登城時間 15分
歴 史脇田氏は源頼光5世多田蔵人資俊の子である俊基が和州忍海郡脇田村(現在の奈良県葛城市)を領した。その後、資俊の子である俊継が湯河氏に仕え、この城を築いたといわれる。 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍により湯河直春が本拠地亀山城(御坊市)を追われ、途中叔父である湯河教春の居城泊城(田辺市)、さらに龍之山城(田辺市)へと落ち、家臣である脇田六郎左右衛門や栗山勝重と龍之山城で軍議を開いたという。 なお江戸時代になり脇田氏は、紀州徳川家に仕え、地士として家名を存続させた。 |
現 状脇田山城は県道199号線沿いにある独立した小高い丘にあり、東側から北側にかけて芳養川が蛇行し天然の堀をなしている。城跡の中心部には墓地に至る山道が縦断しており、そこから西側に主曲輪があり土塁と虎口がある。 東側にある墓地には脇田一族の墓地があり、一番古いと思われる墓石で寛永18年(1642年)のものが残されている。 しかし城跡には寺院が建てられた記録があることより、脇田山城は寺院を兼ねていたか、城ではなかった可能性もある。 |
写 真 |
主曲輪 | 主曲輪土塁 |
主曲輪土塁 | 主曲輪虎口 |