広城(ひろじょう)

所 在 地  有田郡広川町名島
標   高  136m
比   高  130m
築 城 者  畠山基国
築 城 年  応永8年(1401年)
  式  山城
遺   構  土塁 石垣 堀切 竪堀  
登城時間  30分
 

歴 史

 応永の乱(1399年)により紀伊国守護大内義弘が討たれ、代わって畠山基国が守護に任じられ大野城(海南市)に入ったが、南朝方の残党である湯浅氏や楠木氏を鎮圧するため応永8年(1401年)大野城を次男満則に守らせ、自身は在田郡名島に広城を築いて移ったという。 
 その後鳥屋城(有田川町)や岩室城(有田市)を支城として領国統治の強化を目論むが、国人衆らが勢力をふるっていたため、支配体制は脆弱なものであった。
 永正17年(1520年)畠山尚順が反抗を続ける紀南の旗頭湯河直光に対して改易を命じ居城亀山城(御坊市)を召し上げ、それに同調した内衆である平須賀城主野辺慶景を北国へと国替えを命じた。
 しかしこの処分を不満とした湯河・野辺連合軍に鹿ヶ瀬峠より攻め込まれ、窮した尚順は嫡男である畠山稙長に対して本国河内国より援軍を要請したが現れず、基国以来120年余り領国統治の中心として栄えた広城はあえなく落城した。
 

現 状

 広城は広川町と湯浅町の境界にある高城山(標高136m)にある1城別郭の城であり、西ノ城と東ノ城から構成されている。
  西ノ城は広城の本丸であり、山頂から尾根に向けて階段状に曲輪が配置され、切岸による防御が主体となっている。
 現在西ノ城はみかん畑に開墾されたり藪となって当時の遺構は確認できないが基石と思われる石が放置されている。
 西ノ城から東ノ城に通じる尾根部分は鉄塔建設や開墾により改変され、当時あった堀切も現在は埋められ馬場のような平坦地となっている。
 東ノ城へは所有者の方に了解を得て獣害防止フェンス門扉を開けてフェンス沿いに斜面を登ると達する。
 東ノ城は大きく分けて西側と東側二つの区域に分けられ、西側は3段の曲輪からなり、上段は東側から侵入する敵に対して切岸を高くしたり敵を矢掛けするために土盛されており、また西ノ城に通じる虎口と、北側切岸には竪堀群が確認できる。
 東側曲輪は北から東にかけて高さ3mほどの大土塁で囲まれ、土塁上を兵士の往来が可能な構造で、また東側尾根に向けて連続した堀切2条が形を良く残している。
 二つの曲輪はそれぞれ複雑な通路を木橋により繋がれ、また区画する堀切もL型に折れ側面から敵への攻撃を可能としている。
 なお城跡には現在も当時の瓦片が散乱しており、紀伊国守護所に相応しい瓦葺された城であったことが分かる。
 

写 真

                                 
西ノ城 西ノ城本丸
基石 本丸を囲む曲輪
湯浅広港方面 東ノ城と尾根部
獣害防止フェンス門扉 フェンス沿い山道
東ノ城西曲輪(中段) 東ノ城西曲輪(下段)
東ノ城西曲輪竪堀 東ノ城西曲輪北側土橋
東ノ城東曲輪 東ノ城東曲輪土塁
東ノ城東曲輪土塁上通路 東ノ城東曲輪虎口
 東ノ城曲輪間L折れ堀切 東ノ城西曲輪切岸 
 東ノ城西曲輪切岸  東ノ城東尾根堀切
焼跡がある瓦片 墓石


経 路


                                    

     

                                     

地 図




紀中地方の城跡