山野城(さんやじょう)

所 在 地  日高郡日高川町山野
標   高  284m
比   高  210m
築 城 者  玉置氏
築 城 年  南北朝時代
  式  山城
遺   構  曲輪 土塁 堀切 横堀 虎口
登城時間  40分
 

歴 史

 南北朝時代に北朝方として活躍し山地荘(現田辺市龍神村)を治めていた玉置氏は、日高川を下り中流域に田尻城を築き、更に下流域に南朝方である山崎城主川上則秋攻略の拠点として築かれたのが山野城と思われる。
 玉置氏は川上氏を滅ぼした後手取城(日高川町)を築くが、中流域の重要拠点である田尻城(日高川町)を直接望むことが出来ないため、東側に位置する山野城を築くことにより、日高川上流に向けての情報伝達が可能となったと考えられる。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征時に恭順を示した玉置氏に対して、徹底抗戦の姿勢を見せた湯河氏との間に緊張が高まり、湯河氏に攻められた手取城は落城し、その際に日高川上流に向けての退路ルート確保のため山野城が重要な役割を担っていたと思われる。

 

現 状

 日高川支流である江川の上流域に位置し、大滝川と三津ノ川に囲まれた標高284mの山頂に城跡がある。
 城跡までは大滝川森林公園に通じる町道脇より急な斜面を登ると、中央に障壁を設けた二つの横堀とそれに繋がる竪堀が掘られ、そこから主曲輪まで三段の曲輪が階段状に配置された連格式城郭である。
 東側に尾根には3条の堀切により遮断し、主曲輪側のものは横堀に近い形状である。
 主曲輪は山頂部にあり、東西15m、南北8mと狭く、祭礼若しくは見張り台として利用されていたと思われ、北側から西側にかけては切残された土塁は、風除けとして利用されていたのであろう。
 また主曲輪より北側尾根に向けて3条の堀切と竪堀が掘られ、遮断性を高めている。
 山野城は南北朝時代に築かれたと推測されるが、横堀等戦国末期の技法が用いられ、湯河氏との合戦時に大規模な改修がなされたと考える。
 

写 真

                                 
登城口 急な尾根斜面
南側横堀 南側横堀内障壁
南側横堀 南側竪堀
四ノ曲輪 三ノ曲輪
三ノ曲輪切岸 二ノ曲輪
東側横堀 東側堀切
 東側竪堀  東側尾根平坦地
主曲輪 主曲輪土塁
主曲輪土塁 北側堀切
北側堀切 北側竪堀

経 路


   
                                

地 図






紀中地方の城跡