高城山城(たかぎやまじょう)

所 在 地  御坊市名田町楠井
標   高  240m
比   高  173m
築 城 者  湊上野介
築 城 年  不明
  式  山城
遺   構  曲輪 堀切 柱穴 石段 
登城時間  30分

 

歴 史

 高城山城は亀山城主湯河氏の家臣で湯河四天王の一人である湊上野の城跡である。
 居館は地蔵寺南の台地端の一角が上野城跡と推定され、高城山城との根小屋式城郭であったと思われる。
 天文22年(1553年)紀伊守護職畠山氏と、その命令に従わない湯河氏との間で合戦となり、高城山城は龍松山城主山本掃部広信が暫時入城した。
 永禄5年(1562年)に11代当主湯河直光の麾下とし畠山高政と三好長慶との合戦に出陣し、河内国教興寺にて直光とともに討死したという。

 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍により、12代当主直春は亀山城(御坊市)を焼き払い、この城に一時立て籠もったとの伝承があり、その時に命を落とした村人や武士を弔うために地蔵菩薩立像が祀られてた。
 なお城跡では昭和30年代まで相撲大会や餅投げが行われ賑わっていたようである。

 

現 状

 城跡までは舗装された林道を途中の駐車場まで登り、そこからは山道が整備されている。
 途中にある地蔵大菩薩堂の西側斜面に竪堀状の溝が2条掘られ、ここも城の一部であった可能性がある。
 そこから山道を登ると主曲輪手前の岩石に、柱穴のような直径20cm、深さ8mの穴と、階段状に削られた岩石があるが、これが当時のものかは不明である。
 主曲輪は東西30m、南北20mの長方形で、東側に腰曲輪が取り付いている。
 主曲輪西側に2条の堀切があり、山道建設により埋められているが、それにつながる竪堀は形を残している。
 城跡は地元高城山保存会の方により縄張図が記された案内板や、下草刈りが行われ、形状が確認しやすくなっている。

 

写 真

                                 
登場口 駐車場
地蔵大菩薩付近竪堀 地蔵大菩薩
山道から主曲輪 石段
柱穴 主曲輪
主曲輪 案内板
帯曲輪案内板 帯曲輪
主曲輪東側切岸 主曲輪西側堀切
堀切とつながる竪堀 印南方面遠景

経 路


地 図




紀中地方の城跡