鶴ヶ城(つるがじょう)

所 在 地  田辺市龍神村東
標   高  520m
比   高  200m
築 城 者  玉置直虎
築 城 年  元弘3年(1333年)
  式  山城
遺   構  曲輪 堀切 土塁 石垣   
登城時間  40分
 

歴 史

 玉置直虎は南北朝時代に北朝方として戦功を上げ、山地荘(現田辺市龍神村)与えられ、増賀山に居城を築いた。
 その後玉置氏の一族が日高川を下り、現在の日高川町和佐に手取城(日高川町)を築いたことから、前者を山地玉置氏、後者を和佐玉置氏と呼んで区別した。
 山地玉置氏は鶴ヶ城周辺に玉置四天王(松本氏、古久保氏、小川氏、久保氏)と呼ばれた家臣団に城や館を築かせ守りを堅固なものとした。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征時に沿岸部を進む本隊と分かれた別働隊が山地荘に攻め込み、11代当主玉置盛重は別働隊長であった伊藤甲斐守(大和国宇陀領主か)を宮代坂で討ち取るなど奮戦したが鶴ヶ城は落城、盛重は自刃し山地玉置氏は没落した。なお盛重の嫡男竹松丸と重臣松本彦太郎は安芸の国へ逃れたが、3年後に竹松丸は当地で没したという。
 慶長3年(1598年)玉置氏の重臣であった小川与一が一揆を起こし、現在のみなべ町軽井川で上野山城主杉若越後守と戦ったが敗れ、一揆に荷担した70数名が芳養牛の鼻で処刑された。


現 状

 鶴ヶ城は標高520mの増賀山にあり、鶴ヶ城は西を日高川、東を丹生川が天然の堀をなしている。
 城跡から日高川を挟んで北には古久保氏の宮代山城、西には久保氏の鏡ヶ城、南には小川氏の平ヶ城、麓には松本氏の土居と殿屋敷と呼ばれた玉置氏の館があり、非常に狭い範囲に数多くの城や館で守られた県内でも余り例のない形態である。
 主曲輪は南北60m、東西20mの規模で、北側には二ノ曲輪、南側には帯曲輪を配置している。二ノ曲輪から日高川に向けての尾根を遮断する堀切が2条あり、その内の1本には石垣が残されている。
 また主曲輪の南側から西側にかけて約40m下ったところにも腰曲輪が配置されて、ここは馬場跡との伝承がある。
 秀吉軍の南征時には、和佐玉置氏と山地玉置氏はそれぞれ別々の陣営に属しているが、両玉置氏が争った記録はなく、家名存続のための苦肉の策であったのであろう。

写 真

                                 
上山路小学校駐車場 登城口
主曲輪 主曲輪土塁
主曲輪西側切岸 主曲輪東側切岸
東側斜面石積 二ノ曲輪
北側尾根堀切 北側尾根堀切
北側尾根堀切 堀切岩盤
北側尾根 南側曲輪

経 路

 

地 図




紀南地方の城跡