湯浅城(ゆあさじょう)

所 在 地  有田郡湯浅町青木
標   高   78m
比   高   64m
築 城 者  湯浅宗重
築 城 年  康治二年(1143年)
  式  山城
遺   構  土塁 堀切 土塁 武者隠し 虎口  
登城時間  15分
 

歴 史

 湯浅氏は平安時代末期より鎌倉時代にかけて在田郡湯浅荘を本拠とし、康治2年(1143年)湯浅宗重が居城を広保山城(湯浅町)から、新たに青木山に湯浅城を築き、周辺に一族が屋敷を構えたという。
 平治元年(1159年)熊野詣で紀伊国に入国していた平清盛に平治の乱の一報を伝え、その後清盛と共に上洛を果たし、その後平家の有力武将の一人となり、勢力を紀の川流域まで拡張させた。
 南北朝期には南朝方に与した湯浅氏であったが、康暦元年(1379年)紀伊国守護山名義理が湯浅城に攻め寄せ、楠木氏残党や後村上天皇孫である義王丸(大塔宮)を湯浅城に迎え立て籠もったが敗れ当主宗任は自害し湯浅氏は滅亡した。
 
 

現 状

 湯浅城は西方に湯浅町市街地を望む丘陵先端部にあり、南から西を山田川が流れ東側尾根以外は急峻な崖となっている。
 山頂部には主曲輪があり、井戸跡と2か所の虎口が開いている。
 主曲輪南側約5m下方に二ノ曲輪があり、湯浅城の石塔が建てられている。
 二ノ曲輪東側から北側にかけて四ノ曲輪があり、1mほどの土塁状の土橋が東側にある五ノ曲輪に繋がる。
 また四ノ曲輪と五ノ曲輪との間には竪堀が落とされ敵の横移動を阻害している。 
 主曲輪より西側下方にも1mほどの土塁状の土橋が堀切を挟み西側にある七ノ曲輪に繋がり、七ノ曲輪西側には八ノ曲輪があり、西側下方にある武者隠しを通過する敵兵を攻撃できる。
  湯浅城は鎌倉時代に築かれた県内でも最古級の城であるが、近距離にある広城(広川町)を本城とした畠山氏が室町時代後期頃に拠点として利用する際に大規模な改修を行ない現在の縄張になったという。
 なお城跡は湯浅町のグリーンソサエイが城までの歩道やベンチの設置等の整備を行われており、登城の際は事前に連絡をされたい。

写 真

                                 
登城口 遊歩道入口
十ノ曲輪 十ノ曲輪より湯浅市街地遠景
武者隠し  堀切
土塁(土橋)と堀切 土塁(土橋)
七ノ曲輪 搦手虎口
主曲輪、二ノ曲輪 主曲輪、二ノ曲輪
主曲輪木柱 大手門虎口
主曲輪切岸 三ノ曲輪
三ノ曲輪石柱 三ノ曲輪冠木門(模造)
全国湯浅会看板 四ノ曲輪
四ノ曲輪土塁(土橋) 四ノ曲輪と五ノ曲輪を遮断する堀切
縄張り図 湯浅城(国民宿舎)

経 路

                                                   

           

                                     


地 図






紀中地方の城跡