勝山城(かつやまじょう)

所 在 地  西牟婁郡白浜町塩野
標   高  212m
比   高  207m
築 城 者  安宅氏
築 城 年  不明
  式  山城
遺   構  土塁 石垣 堀切 横掘 虎口 
登城時間  50分
 

歴 史

 江戸時代に初期に編纂された「安宅一乱記」によると大永6年(1526年)に当主安宅実俊が病没し、実俊の弟である安宅定俊と嫡子安定との家督争いで、八幡山城(白浜町)で自刃した定俊の嫡男である安次が立て籠もったと伝わる。
 また「久木小山文書」には畠山尚順が「安宅南要害」に籠る味方を小山氏に支援するよう命じたことが記されており、度々歴史文書に登場する城跡である。
 勝山城は安宅荘内の城郭で最高所に築かれ領域支配の要であり、また水軍領主として日置川河口を抑える目的も担っていたと考える。
   

現 状

 勝山城は安宅本城(白浜町)より南方約700m離れた標高212mの山頂にあり、日置川河口や紀伊水道が一望できる位置にあり、高所に築かれたことにより遺構が非常に良好な状態で保存されている。
 勝山城までは西側麓にある塩野地区より登ることが可能であり、放置された梅畑や雑木林を過ぎると尾根に出て、そこから尾根を北側に進むと城跡に到達する。
 最高所が主曲輪であり、四方に低い土塁と南側の二ノ曲輪に通じる所に虎口が開く。
 二ノ曲輪は四方を土塁で囲み、特に東方にある古武之森城(白浜町)側の土塁は高く3mほどあり、虎口には石段が形をよく残している。 
 また北、南、西斜面や尾根に堀切、竪堀が計9条掘られ、特に北側痩せ尾根には岩盤を削り掘られた5条の連続して掘られた堀切が圧巻である。
 
勝山城は遺構から戦国時代末期に大規模な改修が行われたと思われ中世山城の形を非常に良く残した貴重な城跡であるが、高所にあるため登城には十分注意していただきたい。

写 真

                                 
案内看板 案内看板
案内看板(南側尾根) 南側尾根堀切
南側尾根堀切 南側武者隠し
二ノ曲輪 二ノ曲輪東側土塁石垣
二ノ曲輪東側虎口石垣  二ノ曲輪土塁
 二ノ曲輪虎口 主曲輪切岸
主曲輪 主曲輪
西側尾根掘切 西側帯曲輪
北側尾根掘切と石積 北側尾根連続堀切
北側掘切 東側切岸石垣
安宅本城及び八幡山城方面 案内板


経 路

  

地 図




紀南地方の城跡