安宅本城(あたぎほんじょう)
所 在 地 西牟婁郡白浜町安宅 標 高 6m 比 高 − 築 城 者 安宅河内守 築 城 年 享禄年間(1528年〜1532年) 形 式 平城 遺 構 石垣、井戸 登城時間 −
歴 史安宅氏は阿波国を本貫地とする小笠原長清を祖とする御家人であり、長清から9代目にあたる頼春が鎌倉幕府の命により熊野海賊の蜂起に対処するため派遣され海賊を討伐し、安宅荘の荘司となったという。しかし安宅荘は安宅治部大輔俊継が治めていたことから両者に軋轢が生じ、俊継が頼春を殺害したが、後にその息子が仇討ちを行い新しい安宅氏が治め、安宅河内守の代に安宅本城を築城したという。 大永6年(1526年)安宅氏12代当主であった実俊が病没し、嫡子である安定が幼少であったため実俊の弟である定俊が安定が元服するまで家督を預かったが譲らなかったため一族が相分かれての合戦となり、安定が勝利したが、この内証により安宅氏の勢力は大きく衰退した。 慶長19年(1615年)大坂夏の陣、冬の陣に当主であった重春は豊臣方に味方したため、重春は日置正光寺で自刃、嫡子である重次が紀州徳川家の地士として存続した。 |
現 状安宅本城は日置川河口より約2.5km左岸に広がる沖積平野にある館城であり、詰城を北約600mにある八幡山城とした根小屋式城郭であったと思われる。現在城跡の西側には堤防が築かれているが、当時は日置川との比高も余りなく、治水面で不安定であり館城としては不適であるが、水軍領主らしく船の水運を優先したのであろう。 白浜町安宅地区の西端は小字「城の内」と呼ばれ、発掘調査では東西250m、南北200mの範囲に14、15世紀を中心とする遺物や、柱穴・土杭などの遺構が確認されており、周辺には屋敷が建ち並んでいたと推測される。 また東西50m、南北30mの長方形の水堀が東から西までを囲み、北側は自然の谷であったと云われるが、現在は平坦な田畑となっている。 なお現在宅地部分と水田の境に当時のものと伝わる高さ1m程の石垣と民家の中に井戸が残されている。 |
写 真 |
案内板 | 石垣 |
発掘調査(堀跡) | 安宅荘案内看板 |
経 路 |