血深城(ちぶかじょう)

所 在 地  西牟婁郡白浜町十九渕
標   高  110m
比   高  80m
築 城 者  富田八郎
築 城 年  不明
  式  山城
遺   構  曲輪、柱穴   
登城時間  40分
 

歴 史

 南北朝時代に伯耆国大船郡よりこの地に移り、熊野の南朝方と共に戦った富田八郎の築城と伝わる。
 また「安宅一乱記」によると、享禄3年(1530年)の頃に庄川口城主(血深城か)として安宅氏家臣である田井九朗の名が記されている。
 天文3年(1534年)紀伊国守護畠山種長と龍松山城主山本氏との間で富田荘合戦が行われ、畠山軍は富田の浜より上陸し富田川対岸の祇園山に陣を築いた。
 それに対して血深城主久堀黒太夫は畠山勢と弓合戦を展開したが多くの家来が討死し、城下の池が血に染まったことより城名が付けられたという。
   

現 状

 近所の方に城跡までのルートを訪ねると″満願寺裏から昔登ったことがあるよ″と教えていただき、裏の竹藪から杉林を抜け、畑跡を過ぎると城跡に辿り着いた。
 
城跡は東西35m、南北33m程の主曲輪と、三方が断崖絶壁に囲まれた東西50m、南北40m程で岩盤にある二ノ曲輪から成る。
 二ノ曲輪は所々採石された形跡があり、食料庫、武器庫、氷室などいわれる幅1.5m、長さ15m、深さ5m程の穴もその形跡と思われる。
 また二ノ曲輪南側には柱建穴といわれる直径10cm程の穴が6箇所確認できたがこれも採石の名残だろうか。
 血深城は大辺路熊野街道や祇園山城鴻巣城が見渡たすことが出来る要衝に築かれていることがわかる。

写 真

                                 
曲輪 柱穴
遠景(鴻巣城方面) 謎の穴


経 路

                                     

地 図




紀南地方の城跡