鴻巣城(こうのすじょう)
所 在 地 西牟婁郡白浜町保呂 標 高 90m 比 高 82m 築 城 者 内河佐平次 築 城 年 不明 形 式 山城 遺 構 土塁 堀切 竪堀 石垣 溜池 登城時間 20分
歴 史龍松山城主山本氏の家臣である内河氏が築いた城である。内河氏は城周辺に多くの寺社を建て、京都より稲荷大明神を勧請し氏神としたのが内ノ川にある稲荷社の起こりである。 天文3年(1534年)紀伊国守護畠山稙長が、命令に従わない山本主膳討伐のため富田の浜より上陸し祇園山に陣を敷き鴻巣城に攻め込んだが、山本氏からの援軍により攻め倦ねたが、稙長方である日置久木城主小山氏の奮闘により鴻巣城は落城した。 この合戦により多くの犠牲者を出した小山氏に対して稙長より感状が送られている。 しかし天正10年(1582年)山本主膳正が逆に小山氏を味方に付け、畠山氏より鴻巣城を奪還するなど戦略的に重要な城であったことがわかる。 |
現 状城跡は白浜町保呂地区から内ノ川地区に連なる標高92mの丘陵部にある。城跡までは南側麓にある共同墓地から斜面を登ると尾根に達し、そこから尾根を東側へ400mの所に主曲輪がある。 鴻巣城は主曲輪より西側に向けて遺構が続くことから、改修が繰り返されて現状の形になったのであろう。 丘陵部東端最高所の主曲輪は、東西30m、南北20mの規模で、北側と西側には石積で補強された土塁が築かれて、西側土塁は鍵型でであることから、虎口に迫る敵に側面からの攻撃を意識した構造である。 また主曲輪には溜池跡があり、この城が長期間滞在を目的とした城であることがわかる。 主曲輪より西側下方に幅5mの堀切を挟んで造成が甘いが二ノ曲輪と思われる平坦部があり、西端には低い土塁と北側斜面には2条の連続した竪堀により横移動を妨げている。 二ノ曲輪より西側に向けて連続して3条の堀切があり、一部に土橋が設けられている。 城跡の麓には殿屋敷という地名があり、居館と城跡が一体となった根小屋式城郭であったと思われる。 また城跡南側麓にある共同墓地横の雑木林の中に、内河家のものか不明であるが、江戸時代の年号が記された五輪ノ塔が数基残されている。 |
写 真 |
登城口 | 尾根 |
堀切 | 掘切 |
古墳跡か(標高92.5m地点) | 南西端尾根 |
二ノ曲輪土橋 | 二ノ曲輪堀切 |
二ノ曲輪 | 石積 |
二ノ曲輪土塁石積 | 主曲輪直下掘切 |
主曲輪 | 主曲輪土塁と石積 |
主曲輪北側土塁と石積 | 溜池跡 |
主曲輪基石 | 主曲輪切岸 |
経 路 |