高田土居城(たかだどいじょう)

所 在 地  日高郡みなべ町気佐藤
標   高  6m
比   高  1m
築 城 者  野辺氏
築 城 年  不明
  式  平城
遺   構  空堀   
登城時間  −
 

歴 史

 高田土居城は紀伊国守護畠山政長の被官として紀伊国奥郡の小守護を務めた野辺氏の館城である。
 野辺氏は武蔵国多摩郡野辺を領していた東国武士であったが、政長に仕え南部荘の地頭を勤めた。
 また政長派の野辺氏と義就派の衣笠城主愛洲氏が合戦を行った記録も残されているという。 
  その後政長の跡を継いだ尚順の時代になり、紀南の旗頭と呼ばれた湯河氏の勢力が増大すると野辺氏も湯河氏に従い、天文3年(1534年)命令に従わない湯河氏と野辺氏に対して改易処分を行ったが、これを不満とした湯河・野辺氏連合軍が畠山氏の居城広城に攻め込み尚順は堺に落ちていったという。
 

現 状

 南部平野の通称「八丁田んぼ」と呼ばれる地の南端に城跡はある。
 高速道路の建設時に発掘調査が実施され、外堀、内堀を伴う200m四方の巨大平城であったことが分かった。 
 発掘調査によると、高田土居城は平坦部に盛土と外縁部を土塁が廻わり、幅7mの外堀と幅5mの内堀により防御を固めていたという。
 このような大規模な平城が南部荘に築かれたかは不明であるが、畠山氏にとってこの地が重要な拠点であったことが分かる。
 現在城跡は中央に県道が縦断し高速道路みなべICの敷地にも取り込まれ、また宅地化や梅畑開墾によりほぼその姿が消滅しているが、僅かに掘跡の一部が今も残されている。

写 真

                                 
空堀 曲輪
高速道路方面 案内看板
                                

地 図




紀中地方の城跡