印南原城(いなんばらじょう)

所 在 地  日高郡印南町印南原
標   高  68m
比   高  18m
築 城 者  富田牛之助
築 城 年  不明
  式  丘城
遺   構  曲輪  
登城時間  10分

 

歴 史

 印南原城は紀伊守護職畠山尚順の家臣である富田牛之助の居城である。
 尚順は命令に従わない湯河氏と、野辺氏に改易を命じたが、逆に畠山氏の居城である広城に攻め込まれ、淡路に退去した。
 また天文3年(1532年)尚順の長子である植長は、龍松山城主山本広信に命じて共に湯河氏を攻め、印南原城周辺で激しい戦いを展開したという。
 この戦いは手取城主玉置氏の仲介により、湯河氏の拠点である上野山城を放棄することで和議が結ばれた。
 なお富田牛之助は永禄5年(1562年)畠山高政に従い、三好長慶の河内飯盛山城攻めで討死したという。
 

現 状

  印南原城(別称八栗城)は印南川上流に位置し、また和佐や塩屋方面の街道が合流する要衝であった。
  城跡は稲原郵便局裏山の標高68mの「城の丘」にある。
  城跡は開墾により改変されているが、東西30m、南北35mほどの広々とした平坦地が主曲輪であり、東側切岸下方に幅10m、長さ50mほどの腰曲輪が配置されている。
  開墾により大幅に改変されているが、主曲輪や腰曲輪の規模から、この地が戦略上需要な拠点に相応しい城であったことが想像できる。
 

写 真

                                 
主曲輪 主曲輪
主曲輪西側切岸と腰曲輪 主曲輪西側切岸と腰曲輪
腰曲輪 稲原小学校方面

                                                  

地 図




紀中地方の城跡