鹿ケ瀬城(ししがせじょう)

所 在 地  日高郡日高町原谷
標   高  408m
比   高  350m
築 城 者  鹿ケ瀬荘司他
築 城 年  治承5年(1181年)
  式  山城
遺   構  土塁 堀切 土橋 石垣 虎口  
登城時間  1時間
 

歴 史

 鹿ケ瀬の名は、摂政家九条兼実に日記「玉葉」の文中に見えるのが最初で、当時熊野地方の有力者である熊野別当湛増らが源氏に与したため、平家の来襲に備え鹿ケ瀬山を切り塞いだと云う。
 「紀伊国名所図会」には、「太平記熊野八荘司の一に鹿ケ瀬荘司といふあり。其伝詳ならす。此城は此人の築きたるへし」とある。
 また「畠山記」には永禄10年(1438年)南朝方である宇佐美新五郎ら2千人と北朝方の畠山持国と抗戦したことや、有力国人である湯河氏が鹿ケ瀬城を経由して畠山尚順の居城である広城(広川町)に進攻し、尚順を淡路に追放したことが記されている。
 このように熊野古道の難所に築かれた鹿ケ瀬城は、約400年にわたり支配者を変えながら改修が繰り返され、このような広範囲に及ぶ縄張りとなったと思われる。

 

現 状

 城跡は東西約300m、南北110mの尾根上に3つの曲輪が連なり、西曲輪は階段状に配置された付曲輪と竪土塁や石垣が残る。
 東曲輪は櫓台を思わせる台地とその周辺を腰曲輪が取り巻き、大峠に向けた斜面には付曲輪2か所と熊野古道を見下ろす出丸がある。
 この3つの曲輪より更に東側にある寺院跡である「法華の壇」も城跡の一部であった可能性があり、そこを含めると東西約1000mに及ぶ大規模な山城となる。
 またこの城の特徴として尾根上にある3つの曲輪にはそれぞれ斜め虎口が設けられ、曲輪間の移動は虎口を出なければならず、複数の勢力が連合軍として駐留していたと考えられる。
 鹿ケ瀬城は鎌倉時代から室町時代後期にかけて約400年にわたり使用され、西側から東側に向けて城域が拡大されていったことが遺構の特徴からわかる。
 

写 真

                                 
登城口にある河瀬王子 山道
法華壇跡 法華壇の供養塔
茶屋跡(大峠) 茶屋跡から小峠方面石段
大峠案内看板 大峠案内看板
大峠西側にある地蔵と供養塔 出丸曲輪
出丸東側土橋 出丸東側竪堀
出丸西側堀切 東曲輪
東曲輪腰曲輪 東曲輪石垣
主曲輪 主曲輪虎口
主曲輪東側堀切 主曲輪切岸
西曲輪土塁 西曲輪
西曲輪虎口と石垣 西曲輪堀切

経 路


        

                                

地 図






紀中地方の城跡