藤原城(ふじわらじょう)
所 在 地 西牟婁郡すさみ町周参見 標 高 274m 比 高 270m 築 城 者 周参見氏 築 城 年 応永8年(1401年) 形 式 山城 遺 構 曲輪 堀切 石垣 虎口
歴 史周参見氏(当初は藤原氏)は阿波より鎌倉幕府の命を受け熊野海賊衆討伐を命じられ、鎌倉幕府の成敗地であった周参見荘の地頭として入部した。観応元年(1350年)、足利義詮の命により淡路国沼島の海賊討伐の恩賞として阿波国竹原荘で安宅氏と共に地頭職を認められ、紀伊水道を股に掛けた水軍領主となった。 応永8年(1401年)周参見氏は荘内を見下ろす高所に藤原城を築いたといわれる。 なお周参見氏は安宅荘を治めていた安宅氏とは同族であり、安宅氏より度々養子を迎え家名を存続させた。 天正13年(1585年)の羽柴秀吉による南征には恭順することで領土を安堵され、朝鮮出兵時には秀長軍の一員として従軍し戦功を上げた。 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦では西軍として参戦したが敗れ、捕らえられた当主主馬太夫は慶長7年(1603年)京都で牢死したという。 慶長20年(1615年)大阪夏の陣で周参見安親が大阪方として馳せ参じたが、泉州山中で陣を張り待機中に大阪城が落城し捕らえられ、伊勢桑名藩藤堂高虎館で監禁された後に帰農したという。 |
現状藤原城は鯨谷、藤原谷、大来帰谷の三角点の頂点に位置し、周参見荘及び遠くは潮岬から白浜まで眺望できる。周参見氏の菩提寺である臨済宗萬福寺境内にある墓地より登城口があるため、萬福寺に一声掛けてから登城されたい。 城跡までは周参見城を経由して痩せ尾根を登り、1時間30分ほどで城跡に到達した。 藤原城の主曲輪は東西15m、南北25mの規模で四方を土塁で囲み、西側から北側にかけて土塁内側を補強するための石垣が見られる。 また西側土塁は高く、櫓台を建て各尾根に向けて弓で射かけることを想定していたと思われる。 藤原城は各尾根に複数の堀切により遮断され、周参見城方面につながる西側尾根には階段状に連続して3条の堀切と2条目の北側斜面には石垣が積まれている。 北側尾根には曲輪が2か所あり、曲輪間に3条の堀切と、東側から北側斜面には竪堀が3条、南側尾根にも堀切が2条確認できた。 この城は土塁や堀切を石垣を用いて補強しているが、この技法は安宅氏の城で良く見られ、当時の周参見氏と安宅氏の密接な関係性が窺える。 現在主曲輪には朽ちかけたお社が残されているが、以前はここで祭祀が執り行われていたようである。 藤原城は人家から遠く離れた高所にあることから、遺構の保存状態も良好な城跡である。 |
写 真 |
西側尾根より城跡を望む | 西側堀切 |
西側竪堀 | 西側北斜面石垣 |
西側北斜面石垣 | 西側堀切 |
西側堀切 | 主曲輪 |
主曲輪の祠跡 | 主曲輪土塁と石垣 |
主曲輪土塁と石垣 | 主曲輪土塁と石垣 |
南側竪堀 |
東側竪堀 |
北側竪堀 | 主曲輪切岸と石垣 |
稲積島方面 | 周参見氏菩提寺の万福寺 |
経 路 |
縄張図 |