平須賀城(へいすがじょう)

所 在 地  日高郡みなべ町西本庄
標   高  206m
比   高  170m
築 城 者  野辺忠房
築 城 年  室町時代
  式  山城
遺   構  土塁 堀切 竪堀 横堀    
登城時間  30分
 

歴 史

 平須賀城は紀伊守護職畠山氏の小守護(郡代)であった野辺氏が城主を務め、畠山氏の跡目争いには政長方として活躍した。
 しかし南部荘の百姓らが当主野辺春和の暴政に耐えかね湯河氏に訴えたため、直ちに兵を出し平須賀城に攻め込んだため春和は敗れ越中に落ちていったという。
 また野辺氏は同じくみなべ町にある高田土居城(みなべ町)の城代を務めており、政情不安のため平城である高田土居城から平須賀城に移ったのかは不明であるが、城の東側山麓で南部川に沿った平坦地を「オヤシキ」と呼ばれ、居館を構えていた可能性もある。
 平成賀城は畝状竪堀群や横堀など戦国時代末期に用いられた築城工法が見られることから、その時期に大規模な改修が行われたのであろう。

 

現 状

 平須賀城は南部平野最奥の玉川と南部川に合流する標高206mの山頂に築かれている。
 城跡からは南部平野を一望でき、また南部川上流域から南部平野入口を押さえる場所にあることから、鳶之巣城主龍神氏への抑えとしての役割もあったと思われる。
 平須賀城は山頂にある天守台跡と呼ばれる高台から北側に六段の曲輪が連なった連郭式の山城である。
 天守台は東西15m、南北10mの規模で虎口が明確に確認でき、西側にある細長い腰曲輪が馬場跡といわれている。
 天守台から六段の曲輪を下ると3方の尾根が合流する北側斜面に畝状竪堀群が5条と、各尾根を遮断するためそれぞれ堀切で遮断している。
 平須賀城は天守台がある区域と、畝状竪堀群がある北側曲輪で上下関係のある独立した勢力が詰めていた可能性があり、このような形式は県内の畠山氏城郭に見られる。
 城跡は現在、年に2回草刈りが行われ形状が確認しやすく、またみなべ町内にあるうめ振興館には平須賀城の立体模型が展示されている。
 平須賀城は大規模な山城であり、また遺構がほぼ当時のままの状態で保存されている貴重な城跡である。


写 真

                                 
登城口 梅畑沿いの山道
北側土塁 四ノ曲輪北東側堀切
四ノ曲輪西側堀切 四ノ曲輪北東側堀切
四ノ曲輪北側畝状竪堀群 四ノ曲輪北側畝状竪堀群
四ノ曲輪北側斜面 四ノ曲輪 
西側横堀から天守台方面 三ノ曲輪切岸
 三ノ曲輪西側横堀  天守台西側馬場
三ノ曲輪西側切岸 二ノ曲輪から北側方面
東側腰曲輪 天守台虎口
天守台 南側付曲輪
北側遠景 南部平野方面
平須賀城模型(うめ振興館) 案内看板


経 路

地 図




紀中地方の城跡