田辺城(たなべじょう)

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所 在 地  田辺市上屋敷
標   高  5m
比   高  5m
築 城 者  安藤直次
築 城 年  元和5年(1619年)
  式  平城
遺   構  水門   
登城時間  −
 

歴 史

 現在の田辺市は平安時代から続く熊野三山(新宮、本宮、那智)への参詣ルートである中辺路と大辺路の分岐点にあたり、宿場町として多くの参詣者で賑わった紀南地方の中心地であった。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦後、浅野幸長が紀伊国に転封され、家老である浅野氏重が3万石で入部した。
 当初氏重は会津川左岸に洲崎城(現在の田辺市江川付近)を築いたが、大波により破壊されたため改めて当時未開の地でった左岸側に湊城を築いた。
 元和5年(1619年)浅野家が芸州広島に転封となり、徳川家康の10男頼宣が紀伊国55万5千石で入部すると、付家老として三河掛川城主であった安藤直次が紀伊田辺藩3万8千8百石で封ぜられ、浅野氏が築いた湊城を基に田辺城を築いた。
 なお田辺城は高層の櫓等はなく、陣屋的な城郭であったという。 

 

現 状

  当時田辺城は現在の上屋敷、中屋敷付近が城跡で西側には会津川が天然の堀をなし、北側から東側にかけて内堀、外堀があったが、今は道路建設により埋め立てられ何も残されていない。
 現在も残る遺構は、会津川河口部にある水門跡とその周辺の石垣、別称である錦水城の由来となった水量が豊富であった「殿井戸」が残されている。
 なお田辺城の遺構はほぼ消滅しているが、城下町特有の入り組んだ町並みや当時の町名は今も残されている。
 

写 真

                                 
遊歩道入口 不動の滝
案内看板 石垣
外堀を埋め立て作られた道路 殿井戸跡


                                          

地 図




紀南地方の城跡