太地城(たいじじょう)

所 在 地  東牟婁郡太地町太地
標   高  60m
比   高  57m
築 城 者  泰地頼虎
築 城 年  天正10年(1582年)
形  式  山城
遺   構  曲輪 土塁 堀切 石垣  
登城時間  20分
 

歴 史

 隠岐次郎頼定は天応25年(1418年)地頭として現在の太地町周辺に入部した時に姓を泰地氏に改め、森浦に頼子城(太地町)を築いた。
 頼定より八代後裔である頼虎は、紀伊守護職畠山氏の被官遊佐順房の麾下に属していた。
 天正10年(1582年)西に進軍する堀内氏と、それを阻止しようと高川原氏や湯河氏らの連合軍が太地に攻め寄せる気配を見せたため、現在の東明寺裏山に太地城を築き、高川原氏らに対峙したと思われる。

 

現 状

 鯨漁で有名な太地港を見下ろす標高60mの小高い山に城跡はある。
 城跡までは東明寺の方に了解を得て、寺の裏から斜面を登ると、やせ尾根沿いの山道に達し、そこから山道を西に進むと尾根北側斜面に竪堀が1条掘られている。
 更に進むと今度は南側に折れて山道を約50m登ったところが主曲輪である。
 主曲輪は東西50m、南北15mの規模で、南側に低いが土塁の一部と、西端には溜池跡が残されている。
 また主曲輪から西側尾根を遮断するため、堀切とそれに続く竪堀が3箇所あり、堀切には土橋が掛けられているが後世に埋められた可能性がある。
 太地城は曲輪の造成も甘く縄張りも単純であることから、戦いのため急遽築かれた陣城であったと思われる。 

写 真

                                 
主曲輪 主曲輪
主曲輪土塁 曲輪石垣
主曲輪溜池跡 主曲輪土盛り
西側尾根竪堀 西側尾根土橋
西側尾根 太地湾方面遠景
居館があった東名寺 東明寺

地 図






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