敷屋城之森城(しきやじょうのもりじょう)
所 在 地 新宮市熊野川町東敷屋 標 高 211m 比 高 129m 築 城 者 敷屋氏 築 城 年 不明 形 式 山城 遺 構 曲輪 登城時間 30分
歴 史敷屋(矢)氏は、敷矢重市良兼種を祖とする平家正系の子孫と伝わる。源平の戦いに敗れて後、紀州日高の地に入り、紀姓を名乗ったという。道成の代に道成寺の建立奉行となって寺名を道成寺と名付けたという。 その後に浪人となり敷屋に居住し、紀兼能、兼政、兼吉、兼文と代を重ね、兼種の代に三里より下は田長に至るまでを所領し 敷屋氏と名乗ったという。 また「紀伊続風土記」によると、鎌倉時代に千葉大輔胤成の子が流浪して熊野に入り、敷屋家で養われ後に敷屋氏を継いだと伝わる。 兼種は慶長7年(1602)病没後に敷屋氏は没落し、その子は追われ十津川小山手に逃れた、姓を千葉弾正と改め、その子孫は存続した。 |
現 状敷屋城之森城は城之森の山頂にあり、城跡までは麓の東敷屋集落より山道が整備され、途中に山頂より移された祇園社が祀られている。そこから城跡の山頂までは道が荒れているが、比較的登りやすい。山頂部には社跡と石仏が残る部分が曲輪で周辺に腰曲輪が残るが堀切等はなく防御性は低いため、情報伝達や見張りが目的の山城と思われる。 なお、麓には敷屋氏の菩提寺であった長昌寺跡には敷屋氏歴代の墓が祀られており、この地が屋敷跡との伝承がある。 |
写 真 |
登城口 | 祇園社と稲荷社 |
階段状の平坦地 | 主曲輪 |
腰曲輪 | 石仏 |
西側尾根出丸? | 長昌寺跡(屋敷跡) |
敷屋氏歴代墓石 | 案内看板 |