堀内新宮城(ほりうちしんぐうじょう)
所 在 地 新宮市千穂 標 高 7m 比 高 ― 築 城 者 堀内安房守氏善 築 城 年 天正年間(1504年〜1520年) 形 式 平城 遺 構 水堀 登城時間 ―
歴 史堀内氏虎の熊野統治は寛正元年(1460年)頃より進められ、天文の末(1550年)頃、内紛により衰退した有馬氏に次男若楠(後の氏善)を養子に送り込み乗っ取りに成功、天正2年(1574年)氏虎が没すると氏善が跡を継ぎ新宮西端の佐野に殿和田城を築いた。その後氏善は尾鷲三木城や紀伊長島城を攻略、熊野三山を中心に奥熊野を支配していた七上綱(熊野別当に代わって熊野を統治した七家)を屈服させ、西は太田荘田原(串本町田原)から東は長島郷錦浦(三重県紀北町)までその支配が及び禄高は6万石であったという。 天正19年(1591年)豊臣秀吉より熊野統治の支配権を与えられ、堀内新宮城を居城とした。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では石田三成方として西軍に属し、兵350人を率いて伊勢口に侵攻したが西軍主力部隊の敗走を知り新宮に逐電、東軍の桑山一重に攻められ降伏し、海部郡加太村(現在の和歌山市加太)に蟄居後、肥後国加藤清正の宇土城代を勤めたが、元和元年(1615)熊本城内で没した。 |
現 状熊野地方統治を豊臣秀吉に認められた堀内安房守氏善は、殿和田森城から現在の臨済宗全龍寺に堀内新宮城を築き居城とした。今も山門前には「堀内屋敷跡」と記した小さな石碑が残されている。 堀内新宮城の遺構は何も残されていないが、全龍寺裏側を流れる小川は水堀の一部であったといわれ、かつては全龍寺周辺を水堀が囲んでいたようである。 |
写 真 |
全龍寺 | 参門 |
石碑と案内看板 | 案内看板 |
水堀跡 | 水堀跡 |