勝山城(かつやまじょう)

所 在 地  東牟婁郡那智勝浦町浜の宮
標   高  69m
比   高  67m
築 城 者  廊之坊塩崎氏
築 城 年  天正年間
  式  山城
遺   構  曲輪、土塁、堀切、虎口、井戸跡 
登城時間  15分
       
 

歴 史

  天正9年(1581)4月、那智山での有力な社家であった廊之坊塩崎氏と実報院米良氏の実権争いに、新宮から西に勢力拡大を狙う堀内氏善が実報院米良氏と婚姻関係を結び、廊之坊塩崎氏の屋敷・坊院を兼ねた勝山城に攻め込んだ。
 これに対して廊之坊塩崎氏は色川氏や高河原氏と共に約3か月にわたり戦ったが敗れ勝山城は落城、城主重盛は討たれた。
 なお重盛の子らは、重盛の妻の生家である色川氏に匿われ、関ケ原の合戦後に堀内氏善が没落したため、廊之坊を再興し汐崎氏を名乗ったという。  
 

現 状

 勝山城は世界遺産であり補陀落渡海の住僧を出した寺として知られる天台宗補陀落山寺の裏山にあり、従来廊之坊屋敷を勝山城と呼んでいたが、その後尾根続きの東側に橋爪坊屋敷と云われる東出城と同じく尾根続きの南側に廊之坊の弟である神光坊の屋敷と云われる南出城が発見され、城塞群であることが分かった。
 城跡までは補陀落地山寺裏より津波避難道が整備されており、南出城→勝山城→東出城の順で登城できた。
 勝山城は上下二段の曲輪から構成されており、主曲輪周辺を土塁で囲み、西側、北側、南側に虎口が開く。
 主曲輪北西端には今も水を湛えた井戸跡が残され、この城の居住性の高さが裏付けられる。
 主曲輪北東には箱型に掘られた堀切は深さ3mを図り、坊院跡とされる東側平坦地を遮断している。
 二ノ曲輪は西側に土塁の切れ目が虎口であり、また西側土塁は幅も広く通路も兼ねた構造である。
 現在電波塔建設されておる西側平坦地も城跡の一部であったが改変されている。
 なお登城動画は、勝山城南出城→勝山城→勝山城東出城の順で回っています。
 

写 真

                                 
主曲輪 主曲輪大土塁
主曲輪土塁補強石垣 主曲輪井戸跡
主曲輪虎口 主曲輪竪石塁
主曲輪と寺坊跡を遮断する大堀切 主曲輪切岸石垣
二ノ曲輪 二ノ曲輪虎口と切岸
二ノ曲輪切岸石垣 二ノ曲輪北側帯曲輪
二ノ曲輪土塁 無線塔(屋敷跡?)
無線塔北側横堀 寺坊跡
寺坊跡石積 寺坊跡堀切石垣


経 路

         
  
             
        ↑↑↑   
      登城経路(動画)

地 図





紀南地方の城跡