藤倉城南東出城(ふじくらじょうなんとうでじろ)
所 在 地 東牟婁郡那智勝浦町天満
標 高 52m 比 高 38m 築 城 者 実報院米良氏 築 城 年 天正年間 形 式 山城 遺 構 曲輪、土塁、堀切 登城時間 15分
歴 史藤倉城は那智社家実報院米良氏が築いた山城で、天正9年(1581)に那智社家廓之坊との間で大規模な合戦が繰り広げられた。この合戦では周辺の国人衆らが加わり、米良氏には堀内氏が、廓之坊には色川氏や高川原氏が加わるなど約3ヶ月に渡り戦いが行われ、米良氏が勝利し、廓之坊は逃れたが二河で捉えられ討たれたという。 この城もその時に築かれたものと思われ、浜ノ宮方面から侵入する敵に対して防御上必要であったと考えられる。 藤倉城の麓には周辺を1m程の溝で区画された広大な屋敷が設けれ、、那智山の玄関口として機能していたという。 |
現 状藤倉城及び麓の館跡は、高速道路建設により完全に消滅したため、藤倉城に関連する遺構は、二つの小規模な出城を残すのみである。城跡までは麓の空き地から登ることができ、二つの出城の間にある平坦地が途中にあるが、ここは兵の駐屯場に利用された可能性がある。 南東出城は南側尾根に堀切で遮断しているが、羊歯に覆われている。 堀切を過ぎると西側曲輪があり、切り残された高さ1mほどの土塁が北側に残る。 西側曲輪から急峻な切岸を8mほど登ると三角形の主曲輪があり、ここも深い羊歯に覆われているが、東側に低い土塁が一部残されている。 南東出城は小規模であるが、周辺が急峻な崖や切岸により容易に人を近づけない堅固な城である。 |
写 真 |
主曲輪 | 主曲輪北側尾根 | |
主曲輪土塁 | 主曲輪切岸 | |
西側曲輪土塁 | 西側尾根堀切 |