藤倉城南出城(ふじくらじょうみなみじろ)
所 在 地 東牟婁郡那智勝浦町天満
標 高 54m 比 高 49m 築 城 者 実報院米良氏 築 城 年 天正年間 形 式 山城 遺 構 曲輪、土塁、虎口 登城時間 15分
歴 史藤倉城は那智社家実報院米良氏が築いた山城で、天正9年(1581)に那智社家廓之坊との間で大規模な合戦が繰り広げられた。この合戦では周辺の国人衆らが加わり、米良氏には堀内氏が、廓之坊には色川氏や高川原氏が加わるなど約3ヶ月に渡り戦いが行われ、米良氏が勝利し、廓之坊は逃れたが二河で捉えられ討たれたという。 この城もその時に築かれたものと思われ、浜ノ宮方面から侵入する敵に対して防御上必要であったと考えられる。 藤倉城の麓には周辺を1m程の溝で区画された広大な屋敷が設けれ、、那智山の玄関口として機能していたという。 |
現 状藤倉城及び麓の館跡は、高速道路建設により完全に消滅したため、藤倉城に関連する遺構は、二つの小規模な出城を残すのみである。城跡までは麓の空き地から登ることができ、二つの出城の間にある平坦地が途中にあるが、ここは兵の駐屯場に利用された可能性がある。 ここから城跡までは急な切岸であり、登りきると山頂に南北50m、東西10mほど曲輪がある。 曲輪は大部分が羊歯で覆われ形状が確認できないが、東側土塁は形を良く残しており、土塁の切れ間が虎口と思われ、外部の犬走に繋がる。 藤倉城の二つの出城の共通点として、勝山城方面である東側に土塁が設けられている。 |
写 真 |
曲輪 | 東側土塁 | |
東側土塁 | 虎口 | |
西側切岸 | 藤倉城方面(消滅) |