和深浦城(わぶかうらじょう)

所 在 地  東牟婁郡串本町和深
標   高  28m
比   高  15m
築 城 者  村上氏
築 城 年  不明
形  式  丘城
遺   構  曲輪 堀切 石垣 
登城時間  5分
 

歴 史

   和深浦及び里川周辺を治めていた在地領主村上氏の館跡であり、御高屋敷とも云う。
 ここからは和深浦方面及び詰め城である虎松山城が一望できる位置にあり、虎松山城の出城としての役割も果たしていたと思われる。
 村上氏は天正13年(1585年)の羽柴秀吉による南征時に対峙したが許され、和深浦及び里川5百石余りを知行した。
 しかし関ヶ原の合戦で没落したが、守護神として勧請した和深八幡~社には慶長9年(1604年)の八幡祭礼渡板が現存し、村上傳十郎の名前が記録されていることから、その後もこの地に止まり神主を務めたのであろう。
 

現 状

  国道42号線から県道39号線を入ると現在は廃校となっている和深中学校校舎を過ぎ左側の小高い丘の先端部分が城跡である。
 城跡までは麓に住まわれている村上氏の敷地から歩道が整備されており、案内していただいた。
 曲輪は東西15m、南北10mの単曲輪で、西側尾根を遮断する堀切が1条ある。
 また曲輪の東から西側斜面には石垣が残されているが、急傾斜工事により1部が破壊されてしまったようである。
 城跡からは当時の土器片や陶磁器片が出土したようで、ここを居館とし利用していたのであろう。

 

写 真

                                 
曲輪 曲輪
堀切 堀切
曲輪斜面の石垣 曲輪斜面の石垣
虎松山城方面遠景曲輪東側石垣 和深浦方面遠景

経 路


     

  

                                

地 図






紀南地方の城跡