小山城(こやまじょう)

所 在 地  東牟婁郡串本町西向
標   高  50m
比   高  45m
築 城 者  小山氏
築 城 年  不明
形  式  山城
遺   構  堀切 土塁 堀切 井戸跡 
登城時間  20分
 

歴 史

 鎌倉後期の元弘元年(1331年)小山下野守高朝の子経幸・実隆兄弟は執権北条高時の命で、熊野沿海警固の任についた。
 この時経幸は牟婁郡富田郷に、実隆は牟婁郡潮崎荘古座浦に居住し小山城を築いたという。
 南北朝時代に実隆は始め北朝方であったが、後に南朝方に属し紀伊国守護職畠山氏の内訌には政長方として活躍する。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征時には紀南地方の国衆と共に対抗したが許され八百石を知行したという。
 しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で西軍に身を投じたため改易となったが、紀州徳川家初代頼宣より大島浦瞭哨所において異国船の遠見番を主任務とする十人扶持の地士として存続した。

 

現 状

 小山城は西向小学校の西側にある標高50mの小高い山に築かれている。
 城跡までは主曲輪に建造されている金毘羅神社の参道が整備されている。
 主曲輪は東西16m、南北35mの規模で、金毘羅神社建立時に遺構が大幅に改変されたと思われるが、西側と東側に土塁状の土盛りがある。
 西側には虎口のような土塁の切れ間があるが、これは神社建設時の作業道であろう。
 また北側尾根には堀切が1条あり、西側曲輪には井戸跡が2カ所あるが、下方の井戸跡がある平坦地は屋敷跡といわれる。
 小山氏の居館は古座駅方面に約400m離れた場所にあるが、小山城は小曲輪が多数配置され、また井戸跡が複数あることから長期間滞在可能な城跡であったと思われる。

 

写 真

                                 
登城口 金毘羅神社鳥居
金毘羅神社祠 主曲輪
主曲輪 主曲輪土塁
北側尾根堀切 西側斜面竪堀
西側曲輪井戸跡 西側曲輪
西側曲輪 九龍島方面遠景

経 路


  

                                

地 図






紀南地方の城跡