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大野城(おおのじょう)
所 在 地 海南市大野中 標 高 443m 比 高 380m 築 城 者 畠山氏、細川氏、山名氏他 築 城 年 建武・延元年間(1334~1340) 形 式 山城 遺 構 土塁、堀切、石垣、畝状竪堀群 登城時間 30分
歴 史大野城の築城年代は定かではないが、建武・正平年間(1334年〜1370年)には南朝方の浅間入道覚心・忠成、保田宗兼が守護として入城、その後北朝方の細川業秀が入れ替わり入城したが、南朝方の急襲によって敗走したため、代わって幕府は山名義理を送り北朝方の城となった。しかし、六分の一殿と呼ばれるまでの勢力を持った山名氏を抑えるため、将軍足利義満が画策した明徳の乱が勃発、義満は大内義弘を送って攻めさせると、義理は城を脱して淡路国由良へ脱し、入れ替わりに大内氏家臣である陶弘宜が守護代として入城するも、応永6年(1399年)大内義弘が応永の乱で戦死、この乱で功績のあった畠山基国が守護職として入城した。基国は応永8年(1401年)に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせたという。 |
現 状大野城は海南市街地の南に位置する標高443mにある大規模な山城である。城跡へは、海南市と有田川町を結ぶ県道18号線から「雨の森 森林公園」に向かう舗装された林道があり、公園の駐車場を過ぎてからは荒れ放題な未舗装道路となるため、徒歩で15分くらい歩くと、城跡に至る山道が整備されている。 大野城は大野城山(標高443m)にある主城の東の城と、藤白山(標高424m)にある支城の西の城からなり、その範囲は尾根上1100mに及ぶ。 平成3年から東の城から北側にかけて発掘調査が行われ、城跡からは恒久的な建物が複数あったことを示す礎石や、土抗、天目茶碗や灰釉陶器などの陶磁器が大量に出土している。 東の城の主曲輪部分は、南北に三段の曲輪からなり、曲輪周辺切岸に緑泥片岩による石積みが見られる。 遺構は主曲輪の南西方面尾根を下ったところに中曲輪があり、通路にも利用されたと思われる土塁や尾根を遮断する深い堀切、また中曲輪の南斜面に長い畝状竪堀群が残されている。 西の城に向けた尾根には繋ぎの曲輪があり、この二つの城が同時に使用されていた痕跡と思われる。 西の城は曲輪と南側斜面に階段状の腰曲輪があり、北側尾根には土橋を伴った堀切が一条残されている。 大野城は紀伊守護所が置かれた城跡であり、その規模や遺構ともに優れた山城であるので、城跡直下までの林道維持整備や案内看板を充実させて多くの方に訪れていただきたい。 |
写 真 |
登城口 | 山道 |
案内看板 | 東の城三段の主曲輪 |
東の城南西尾根堀切 | 東の城土塁 |
東の城竪堀 | 東の城畝状竪堀群 |
東の城竪堀 | 東の城堀切 |
東の城堀切 | 繋ぎの曲輪 |
西の城曲輪 | 西の城堀切 |
西の城土橋 | 雨の森公園から海南市街地遠景 |
経 路 |