加茂城(かもじょう)

所 在 地  海南市下津町小松原
標   高  50m
比   高  30m
築 城 者  加茂氏
築 城 年  室町時代
  式  丘城
遺   構  曲輪、切岸    
登城時間  10分
 

歴 史

 築城者である加茂氏の出自はわからないが、加茂神社の八幡社の「天文棟札」に藤原春宗とあり、また「宮崎氏系図」には宮崎定湛の子定仏の側書に加茂氏祖と記されている。
 南北朝時代の天平6年(1351年)後村上天皇綸旨がその軍功によりそれぞれ加茂三郎左衛門、左近将監に、天授5年(1375年)長慶天皇綸旨が加茂尾張守宛に出されており、南北朝期には南朝方に与していたと思われる。
 また紀伊国守護畠山氏の時代には、その被官として行動し、河内国等各地を転戦している。
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征により加茂氏は敗れ、天正17年(1589年)加茂左近太夫が死去し、加茂氏は断絶したという。
 

現 状

 加茂城は別称紫雲山城とも呼ばれ、西山浄土宗往生院裏山にあり、南北に細長く突き出た舌状台地に築かれいる。
 現在城跡は主曲輪が全面ミカン畑に開墾されているが、東西部分の切岸と南側末端部分に荒れ地となった曲輪がある。
 切岸部分に崩れかけた石垣が積まれているが、古いものであるが当時のものかは分からない。
 また主曲輪の北側は二条城とよばれる二の曲輪部分であるが、現在宅地化され遺構は何もないが、宅地化前までは、主曲輪と二条城の間に大堀切が残存していたようだが、埋め立てられている。
 加茂城は県内でも有数の館形式の城跡であったが、開発によりほぼ消滅しているのは非常に残念である。
 

写 真

                                 
往生院 本堂
主曲輪 南曲輪
東側切岸 東側切岸にある石垣
西側切岸石垣 主曲輪西側斜面
前方の民家部分が二条城跡   前方山頂が八王子砦   
                                              
    

地 図






紀北地方の城跡