赤松城(あかまつじょう)

所 在 地  日高郡印南町西ノ地
標   高  267m
比   高  228m
築 城 者  赤松則村(円心)
築 城 年  鎌倉時代
  式  山城
遺   構  曲輪 堀切 土塁 石垣   
登城時間  1時間30分
 

歴 史

 築城者は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した赤松則村(円心)といわれ、六波羅探題からの命を受け日高地方の一揆鎮圧のため赤松山に城を築いたという。
 赤松城には三男則祐が入り、平時は南西に5km離れた光川に居館を構えたという。
 嘉暦2年(1327年)に赤松則村の娘が芳養八幡宮神主楠本守永に嫁ぐなど、赤松氏がこの地に定着に努めていたことが分かる。
 赤松城より南側に古屋という地名があるが、これは当時一揆軍との激しい戦いにより多くの矢がこの地に降ったことが由来との伝承がある。 
 その後建武3年(1336年)則村は本拠地である播磨白旗城を新田義貞に攻めらていることから、それ以前に赤松城は放棄されたと思われる。

 

現 状

 印南川と切目川の中間に位置し、印南町島田(切目)の市街地から約5km北方に城跡がある。
 城跡までは麓にある苗代川池上流から僅かに残る山道と獣道を進むと尾根に着き、そこから尾根を約1.5km登ると城跡に辿り着く。
 遺構は南北の尾根に曲輪が5箇所と東側に腰曲輪が配置されている。
 主曲輪は南北42m、東西20mと広く、北端に低い土塁の一部が残されている。
 主曲輪北側の切岸を下ると、南北22m、東西30mほどの造成が甘い曲輪があり、大量のがれきが散乱しているが、当時は切岸部分に石垣が積まれていたと思われる。
 そこから北側尾根には堀切3か所により遮断している。
 また南側曲輪の西側斜面にも石垣の一部が残されているが、全体的に風化により原形が失われつつある。

写 真

                                 
主曲輪 主曲輪土塁
登頂記念館木板 主曲輪北側切岸
北側曲輪 東側腰曲輪
南曲輪 南曲輪西側切岸石垣
南側尾根より赤松山を望む 切目方面遠景

経 路

地 図




紀中地方の城跡