銭坂城(ぜんざかじょう)

所 在 地  橋本市
標   高  106m
比   高   ―
築 城 者  生地氏
築 城 年  室町時代
  式  丘城
遺   構  曲輪、土塁、空堀
登城時間  ―
       
 

歴 史

 生地氏は室町時代に紀伊守護職に任じられた畠山基国に属して活躍し、将軍足利義満より相賀を賜った。
 永享のはじめ(1429~33)、俊澄は畑山城を川北に移し、相賀新城と称したが、一般的に銭坂城と称されている。その後、畠山氏の内証には義就方として参戦し、寛政二年(1463年)河内国嶽山城を追われた畠山義就がこの城に入城している。
 守護畠山氏滅亡後は織田信長方として高野山攻めに加わった際に、この城も利用されたようである。
 関ヶ原の合戦では、当主生地吉澄は近江に出陣、同地で戦死したといわれている。
   
 

現 状

 銭坂城は紀ノ川右岸の河岸段丘の先端にある丘城で、城内を大和街道が通過し、関所を設け、通行税を徴収したことから「銭坂」と名付けられたのかもしれない。
 城跡は、城の内や土居垣内など城跡を示す小字にあり、東西150m、南北100mの範囲であったと推測され、現在は線路や道路、住宅地に改変されている。
 遺構は、鈴鹿神社が祀られている土盛り部分の土塁と、土塁外側にL型に折れて横矢掛けの空堀が残されている。
 

写 真

                                 
曲輪 曲輪にある観音神社
生地石見守を祀る祠 神社にある土塁
土塁と空堀 土塁と空堀
 
空堀 紀ノ川方面遠景


            

地 図





紀北地方の城跡