霜山城(しもやまじょう)

所 在 地  橋本市隅田町中島
標   高  123m
比   高   20m
築 城 者  隅田党(畠山氏)
築 城 年  不明
  式  丘城
遺   構  曲輪、土塁、横堀、堀切、虎口     
登城時間  5分
 

歴 史

 築城年代は定かでないが鎌倉時代末期から室町時代にかけて隅田八幡宮の俗別当に任じられ、隅田荘の公文職を務めた隅田氏一族の野口氏、下山氏、中島氏などが居城したという。
 永禄十年(1567年)、守護畠山昭高と根来衆徒ら3千の勢力が、三好三人衆が拠る大和国幸田城を攻撃した際に、霜山城が利用されたと云われる。
 霜山城は他の隅田党(隅田一族と政所一族との連合体)城館跡と比較しても、規模が大きく複数の曲輪を有した縄張り、また巨大な横堀を用いた防御性の高い遺構から在地領主の城ではなく、守護畠山氏の拠点であった可能性もある。

 

現 状

 霜山城は隅田八幡宮の南西端の段丘にあり、南側の平野部を大和街道が通る交通の要衝に位置する。
 遺構は曲輪が東西に並んでいるが、開墾により周辺を囲んだ土塁は削り取られ、かなり改変されている。
 曲輪の周辺は空堀が巡り、北側は二重の空堀で遮断され、また曲輪が見通せないよう高さ4m程の蔀土塁が設けられている。
 また城跡北側の平坦地は畑として開墾されているが、兵が駐屯する曲輪であったと考えられる。
 霜山城は開墾により改変されているが、中世丘城の形を良く残した県内でも有数の城跡である。
 なお城跡は私有地のため、許可を得て見学していただきたい。

写 真

                                 
登城口 西側曲輪土塁
西側曲輪虎口 西側曲輪切岸
東側曲輪土塁 曲輪間空堀
南側空堀 北側空堀
西側麓にある五輪塔 西側遠景

経 路


        

                                

地 図







紀北地方の城跡