長藪城(ながやぶじょう)

所 在 地  橋本市慶賀野
標   高  349m
比   高  110m
築 城 者  贄川義春
築 城 年  文明年間(1469〜1487)
  式  山城
遺   構  曲輪、土塁、堀切、虎口     
登城時間  30分
 

歴 史

 長藪城は紀伊国と河内国を結ぶ高野街道を見下ろす交通の要衝にあり、中世高野山領であった相賀荘の西端に位置する。
 「紀伊続風土記」によると文明年間(1469〜1487)に、十津川よりこの地に攻め入った、贄川義春が築いたと記されている。
 贄川氏はその後守護畠山氏の被官として活躍したが、天正13年(1585)秀吉による紀州征伐に敗れ、長藪城も落城したという。
 
 

現 状

  長藪城は紀北屈指の大規模な山城で、橋本市城山台北側の城山(標高349m)にある。
  城跡までは城山台町内会館脇より登ることができ、そこから東の城に到達する。
  城跡は尾根沿いに延長約600mに及び、西の城、東の城、出城の曲輪群に分かれた一城別郭の城郭で、各曲輪群を繋ぐ尾根は堀切で遮断されている。
 長藪城の主郭は西の城であり、 範囲は東西30m、南北100mほどであり、曲輪が三段取り付いている。
 西の城の主郭には、土塁と、西端に虎口、東の城方面の痩せ尾根には土橋をともなう巨大堀切と、南側出城方面には3ヶ所の掘切で遮断されている。
 西の城から約250m東に離れた位置に東の城があり、東西20m、南北80mほどの規模で、曲輪には土塁と四方の尾根に堀切、また不明瞭であるが西の城方面と、南側に虎口が残る。
 西の城から約100m南側に出城があるが、曲輪とその周辺に帯曲輪を配したのみ、監視や見張所として利用されていたと思われる。
  

写 真

                                 
登城口 登城口看板
西の城
東の城南側堀切 東の城南側竪堀
東の城看板 東の城曲輪
東の城北側堀切 西の城土橋
西の城曲輪土塁 西の城と出城を遮断する堀切
出城曲輪 出城腰曲輪

経 路


          

                                

地 図







紀北地方の城跡