久野原土居城(くのはらどいじょう)

所 在 地  有田郡有田川町久野原
標   高  268m
比   高    4m
築 城 者  保田氏
築 城 年  鎌倉時代
  式  平城
遺   構  石垣    
登城時間  -
 

歴 史

 有田川下流の保田荘を本拠とした湯浅宗光の子である宗氏は、有田川上流の阿弖河荘の地頭となり、久野原土居城を築き保田氏を名乗ったという。
 その後知宗の代になり阿弖河荘の中心地である清水の八幡山に紅葉山城を築き移ったという。
 室町時代には畠山氏に服従していたが、娘を佐久間盛次の子・安政の嫁として送るなど、以降は信長の家臣で安政の同族に当たる佐久間信盛の与力として活躍した。
 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳の戦いに際しては、柴田勝家の与力であった佐久間盛政(養子・安政の兄)軍に属して参戦したが討死したという。
 なお文永12年(1275年)に宗氏より地頭職を継いだ宗親に対して阿弖河荘上村(現在の有田川町清水)の百姓が、強制的な夫役徴発など、宗親の非道を13カ条にわたって六波羅探題に訴えた『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』には「「ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリ」といった手段で百姓を責めた様子が片仮名で書かれており、当時の地頭の横暴さを示した貴重な資料である。

現 状

 杉之原にある岩倉神社の南側に田畑と空家が2段ある場所を地元では「土居屋敷」と呼んでいる。
 訪れた時に保田家現当主の方にお話を聞くことができ、空家に積まれた石垣は当時のものであり、反った形が珍しいため、度々見学に訪れる人がいるようである。
 なお現保田家当主は17代目で、関ケ原の合戦後に保田家を継承した家系のようである。
 

写 真

                                 
西側石垣 東側石垣
反りのある石垣 広々とした敷地
西側に谷川が流れている 城跡であった田
                            
 

地 図




紀中地方の城跡