保田城(やすだじょう)

所 在 地  有田市辻堂
標   高  5m
比   高  −
築 城 者  貴志行兼
築 城 年  建武元年(1334年)
  式  平城
遺   構  なし    
登城時間  −
 

歴 史

 南北朝時代より保田荘は湯浅氏一族である保田氏の所領であったが没落し、代わって建武元年(1334年)那賀郡貴志荘地頭であった貴志信兼の子行兼が足利尊氏より賜り保田城を築き、室町時代末期には田殿荘の半分、浜中荘塩津を加え、五千石を領したという。
 寛正4年(1463年)貴志信濃入道は畠山政長方として義就が籠る河内嶽山城攻めで活躍し感状を受けている。 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征により保田城は落城し、貴志氏は帰農したという。

 

現 状

 保田城は有田川下流左岸に位置する辻堂に築かれた館城であるが、現状は宅地化やミカン畑となり遺構は何もないが、地元では城跡周辺を城と呼ぶようである。
 辻堂にある称名寺は天授元年(1375年)に建立され、保田荘5ケ村(千田、星尾、辻堂、山田原、中島)の本寺であり、文化4年(1807年)に現在の地に移ったという。
なお称名寺境内にある宝篋印塔は、保田庄司であった貴志掃部之助宗朝の供養塔であり、永和2年(1376年)と刻まれており、有田市指定文化財である。
 

写 真

                                 
城跡 称名寺山門
称名寺本堂 宝篋印塔
                                                   
 

地 図






紀中地方の城跡