宮崎城(みやざきじょう)

所 在 地  有田市
標   高  3m
比   高  −
築 城 者  宮崎定範
築 城 年  嘉応元年(1169年)
  式  平城
遺   構  なし    
登城時間  −
 

歴 史

 平安末期の嘉応元年(1169年)田辺別当・湛全の弟であった宮崎定範がこの地に城を構え、室町時代には宮崎荘内7箇村(箕島、古江見荘、野、北湊、小豆島、新堂、山地)3千余石を領したという。
 南北朝時代は湯浅氏の勢力範囲であったが、湯浅氏が没落し畠山氏が紀伊国守護となってからは、宮崎氏はその麾下に入り、永禄5年(1562年)畠山高政と三好長慶との久米田の戦いにおいて奇襲により3箇城を落とす活躍をみせた。
 しかし天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征時に、城主隠岐守定秋は敵対したため宮崎城は落城、宮崎氏は所領を失ったという。
 その後隠岐守定秋の三男定直は、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」(翌年の大坂夏の陣との説もあり)で豊臣方として奮戦したとされる。その後、大阪城を出て有田に向かっていたところ、神明の加護により刀が自然に抜けて追手を斬り倒したことにより命が救われたことから、祠に太刀を収めたのが現在の太刀宮である。
 

現 状

 宮崎城は有田川下流左岸に位置する野地区には築かれた館城であるが、現状は宅地化やミカン畑となり遺構は何もないが、城跡の北と南には水路があり当時の堀跡かもしれない。
 なお城跡より南西にある立神社は、定範が境内に社殿を創造し、熊野十二柱の神を祀ったとされている。

写 真

                                 
城跡 北側水路
南側水路 立神社
                                                   
 

地 図






紀中地方の城跡