紀州武家列伝          
  紀伊国戦国時代勢力予想図     

                   

隅田党

 藤原忠延が、長治二年(1105年)に隅田八幡宮の俗別当に任じられ、隅田荘の公文職としてこの地を治めたのが隅田氏の始まりである。
 元弘元年(1331年)後醍醐天皇が山城国笠置山で鎌倉幕府に挙兵したため、隅田忠長は一族と共に北条氏に属し六波羅軍奉行として各地で転戦した。
 しかし、元弘三年(1333年)後醍醐天皇が再度伯耆国船上山で挙兵すると、鎌倉幕府御家人筆頭である足利高氏(尊氏)が天皇方に寝返り六波羅探題を強襲、北条仲時らは敗れ近江国蓮華寺において一族432名が自刃し、隅田忠長を含む一族の多くも戦死しその勢力は大きく衰退していった。
 その後一族が分立して隅田一族となるが、この隅田一族とはいわゆる「隅田一族」と、高野寺領荘官である「政所一族」との連合体であり、隅田党を形成していった。
 戦国期には紀伊守護職畠山氏の内証に巻き込まれ、また内証後も畠山氏に従い各地を転戦するが、畠山氏の没落により織田信長の麾下に入ることとなる。信長の死後は豊臣秀吉に従い朝鮮出兵にも従軍するが、隅田党は武士団としての形態を維持できず帰農し近世を迎えた。

雑賀衆

 雑賀衆とは現在の和歌山市と海南市の一部である、雑賀荘のほか紀ノ川右岸の十ヶ郷、雑賀川沿いの宮郷(社家郷)・中郷(中川郷)・南郷(三上郷)を合わせた五荘郷の土豪連合であり、この雑賀の五荘郷はそれぞれ「惣」と呼ばれる小領主を中心として、地縁・血縁で結ばれた自治的な共同体組織である。
 元亀元年(1570年)大坂石山本願寺と織田信長との間で石山合戦が起こると、雑賀党首鈴木孫一は、他の雑賀衆の集団とともに本願寺の門主顕如の求めに応じて本願寺に入り、織田軍と戦った。
 石山本願寺攻めに手を焼いた織田信長は、本願寺を倒すためにはまず雑賀衆を抑えることを考え、雑賀衆の一部土豪や根来衆杉坊を味方につけた上で、天正五年(1577年)信長自身率いる十万の大軍をもって雑賀荘、十ヶ郷の雑賀衆と交戦した。織田軍は中野城こそ落とすも、不慣れな地形に苦戦したが、最終的には雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆を率いる鈴木孫一・土橋守重らに誓紙を提出させ、服属を誓わせた。
 天正八年(1580年)門主顕如が石山本願寺から退去して雑賀党に支援を求めるため、鷺之森(和歌山市)にやってきたが、天正十年(1582年)親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋守重を謀殺し雑賀衆の主導権を握るが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると、孫一は逃亡し、逆に土橋派が主導権を握った。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めにより雑賀衆の結束が崩れ、主導権を握っていた土橋平丞は土佐に逃れ、その他土豪は降伏した。
  その後雑賀衆は、帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術を各大名に仕えたりし、集団としては歴史から消滅した。

畠山氏

 畠山氏の祖は武蔵国畠山郷を本貫地とした畠山重忠である。
 重忠は源平合戦には源頼朝に従い活躍したが、鎌倉幕府初代執権北条時政と対立し戦ったが敗死したが、足利義兼の子義純が畠山氏を足利一門として存続させた。
 応永六年(1399)大内義弘が室町幕府に蜂起したとの戦い(応永の乱)で敗死、領国であった紀伊は畠山基国に与えられ大野城(海南市大野中)に入城するが、南朝の残党討伐のため在田郡名島(広川町名島)に広城や周辺に岩村城(有田市)、鳥屋城(有田川町)を築き、広城を紀伊畠山氏の本城とした。
 紀伊国は高野山、根来寺などの寺社勢や雑賀衆、湯河衆ら国人領主勢力が強大であったため、畠山氏の支配地域は在田郡周辺に限定された。
 畠山政長の子である尚順は、本国河内を嫡男稙長に譲り紀伊の領国経営強化を進めたが、これに対して内衆の野辺氏と湯河氏が反発し、その連合軍が広城に攻め寄せ、尚順は淡路へと落ち当地で没した。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めでは、実権はないものの雑賀党や湯河氏ら対抗勢力の盟主に推された畠山貞政は岩室城に拠ったが、家臣である白樫・神保氏が秀吉軍に内応したため岩室城、鳥屋城が陥落、貞政は高野山に登り紀伊畠山氏は滅亡した。

湯河氏

 湯河氏の祖は甲斐清和源氏武田三郎忠長で、甲斐武田氏の一族とされる。
 忠長が甲斐国から来住し、道ノ湯川(田辺市中辺路町道湯川)に住み、岩上峠に出没する山賊を討ち取った。この功が京都六波羅探題に認められ、恩賞として牟婁芳養荘(田辺市芳養周辺)を賜り、内羽位に館を構えた忠長は道湯川庄司の娘であるお葉を正室に迎え姓を湯河に改姓したという。
 二代目光長は、父忠長亡き後、芳養荘を更に強固なものとするため、重臣である林掃部や家臣に芳養川流域に数多くの城を築かせ、当時芳養の都と称されるほど栄えた。
 三代目光春は貞和四年(1348年)安定した芳養荘を基盤に日高地方への進出を試みたが、在地土豪の反発が激しく蛭ヶ崎(御坊市丸山)に布陣し周辺を鎮圧したのち日高平野を一望できる亀山に城を築き、以来湯河氏の居城として栄えることになる。
 その後室町幕府の奉公衆として活躍した湯河氏は、日高平野から牟婁芳養までの沿岸地域を支配し、名目上の紀中・紀南の旗頭に躍進した。
 永禄五年(1562年)家臣と対立して紀伊に落ちていた畠山高政は、湯河直光ら紀伊国人衆を纏め上げ、久米田にて対立する三好長慶の実弟である実休を討ち取ったが、教興寺の合戦で紀州衆を指揮していた直光が討死すると総崩れとなり、紀伊へと敗走した。
 直光の跡を継いだ直春は、天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州征伐を受けることになり、直春は抗戦を主張したが、娘婿で手取城主である玉置直和は秀吉に恭順したことに激怒した直春が手取城を攻めたが、秀吉軍が亀山城に迫ったため、城や館を焼き払い熊野へと落ちていった。
 熊野の山岳で同じく奉公衆であった山本氏らとゲリラ戦を展開し約3ヶ月戦い、両者は和睦することとなったが、天正14年(1586年)浅野氏に替わり紀伊国主となった羽柴秀長の居城大和郡山城を訪れた際に直春は毒殺されてしまう。
 なお直春の嫡男である丹波守光春は秀長に仕え三千石を領し、秀長の没後は安芸浅野氏に仕え宮島奉行を勤めたという。  
 

和佐玉置氏

 玉置氏の祖は、平資盛の子で源平合戦に敗れ熊野に逃れ、玉置山荘司となった蔦野十郎資平という。
 南北朝時代の文和元年(1352年)ごろ、北朝方であった玉置氏一族である大宣が日高川を下って和佐に侵攻し、先住者である川上荘五十村を領していた南朝方である山崎城主川上則秋を滅ぼし手取城(日高川町)を築いたという。
 その後次第に領地を拡大した玉置氏は、野口村(御坊市野口)より福井村(田辺市龍神村福井)までの日高川流域と、在田郡津木村(有田郡広川町津井)を領有し、石高は1万6千石であったという。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めには恭順を示したため、秀吉と全面抗戦を主張していた義父である亀山城主湯河直春に攻められ、坂ノ瀬(日高川町和佐)の河原で合戦となった。川に柵や壕を掘り防戦したが強大な湯河軍との戦いで多くの家臣を討たれ手取城は落城し直和は敗走した。
 その後秀吉より本領を安堵され、四国の長曾我部攻めにも従軍したが、紀伊国主となった羽柴秀長に兵役を軽減するため自らの領地を実際より少なく3千5百石で申告したことにより領地が大幅に減封となり、無念に思った直和は家督を嫡男高直に譲り、自身は高野山に登り仙光院と称したという。
 その後玉置氏は和佐の地を去り尾張徳川家や津藩藤堂家に仕えたが、一族や家臣で土地に残ったものも多く、紀州徳川家の地士に取り立てられたものもあったという。
             

山地玉置氏

 玉置氏の祖は、平資盛の子で源平合戦に敗れ熊野に逃れ、玉置山荘司となった蔦野十郎資平という。
 南北朝時代に北朝方として戦功を上げ玉置直虎は、山地荘(田辺市龍神村)与えられ、増賀山に鶴ヶ城(田辺市龍神村)を築いた。
 その後玉置氏の一族である玉置大宣が日高川を手取城(日高川町)を築いたことから、前者を山地玉置氏、後者を和佐玉置氏と呼んで区別した。
 山地玉置氏は鶴ヶ城周辺に玉置四天王(松本氏、古久保氏、小川氏、久保氏)と呼ばれた家臣団に城や館を築かせるなど守りを堅固なものとした。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉による紀州征伐により沿岸部を進む本隊と分かれた別働隊が山地荘に攻め入ったため、当主玉置盛重は別働隊長であった伊藤甲斐守(大和国宇陀領主か)を宮代坂で討ち取るなど奮戦したが、鶴ヶ城は落城、盛重は自刃し山地玉置氏は没落した。
 なお盛重の嫡男竹松丸と重臣松本彦太郎は安芸の国へ逃れたが、三年後に竹松丸は当地で没したという。  
          

龍神氏

 龍神氏の祖である源頼政は、治承四年(1185年)五月に平家と宇治川で戦い奈良へ逃れる途中に敗死(平等院で自害とも)した。五男頼氏が難を逃れ山地荘(田辺市龍神村殿垣内周辺)に隠れ住んだという。
 頼氏から七代のちの頼綱は、応永六年(1399年)大内義弘の乱の功績により南部川上流の地を幕府より賜ることになり、鳶之巣城(みなべ町土井)を築き居城とした。
 しかし五代後の秀政が、亀山城主湯河氏の謀略で大和国高取城で戦死、鳶之巣城も落城し龍神氏一族は離散したという。 秀政の子である家綱は島之瀬(みなべ町島之瀬)に逃れ帰農したという。

山本氏

 初代忠行は北畠氏の家臣として勢州(三重県)一之瀬城の城代を務めた後、櫟原荘の地頭としてこの地を治め、後に龍松山城(上富田町)を築き居城とした。
 山本氏は南北朝時代には南朝方として各地を転戦、北朝方の湯河氏や小山氏らと戦ったが、南朝方が衰退するにつれて北朝側に転じた山本氏は、湯河氏、玉置氏らと共に室町幕府奉公衆の一員に編成された。
 勢力の安泰を得た山本氏は田辺・日高郡に地歩を築き、熊野衆を代表する有力国衆へと成長していった。
 戦国期になると隣接する安宅氏との間で緊張が高まり、高瀬要害山城(白浜町)や蛇喰城(上富田町)などで激しい戦いを繰り広げた。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めにより、部将である藤堂高虎、仙石権兵衛、青木勘兵衛、宇野若狭らに攻められ、城主山本康忠を中心に熊野地方の国衆や亀山城より退去してきた湯河直春らと共に、富田川周辺や山岳部で3ヶ月間戦い続けたという。
 この戦いは和睦によって終止符が打たれたが、和睦交渉のため紀伊国主となった豊臣秀長の居城大和郡山城に赴いて謁見後の帰路途中で、紀和国境真土峠にある藤堂高虎の館で謀殺され、その首は大和大安寺(現奈良市)に晒され、紀南の有力国衆であった山本氏は滅亡した。  
          

安宅氏

 安宅氏は小笠原長清を祖とする御家人で、長清から九代目にあたる頼春が鎌倉幕府の命により熊野海賊・悪党鎮圧のため派遣され安宅荘を本拠地とした。
 観応元年(1350年)、足利義詮の命により淡路国沼島の海賊討伐の恩賞として阿波国竹原荘の地頭職に任命され、紀伊水道を股に掛けた水軍領主となった。
 なお三好氏に属して活躍した冬康は実俊の子で安定の弟にあたり、一度三好氏の養子となり、のちに安宅に復したものという。
  
 大永六年(1526年)安宅氏十二代当主実俊が病没し、嫡子安定が幼少であったため叔父である定俊が元服するまで家督を預かった。しかし安定が元服しても定俊が家督を譲らなかったため、周辺国衆を巻き込んだ家督争いが勃発し、定俊が敗れ安定が家督を継いだが、この内証により安宅氏の勢力を大きく減退することとなった。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めには恭順することで領土を安堵され、朝鮮出兵時には秀長軍の一員として従軍し戦功を上げた。
 慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦では西軍として参戦したが敗れ所領を没収され、慶長十九年(1615年)大坂夏の陣、冬の陣で安宅重春は豊臣方に味方したため、戦後浅野氏に捕らえられ日置正光寺で自刃し、その後嫡子重次が紀州徳川家より地士として家名を存続した。  

周参見氏

 周参見氏(当初は藤原氏)は阿波より鎌倉幕府の命を受け熊野海賊衆討伐を命じられ、鎌倉幕府の成敗地であった周参見荘の地頭として入部した。
 観応元年(1350年)足利義詮の命により淡路国沼島の海賊討伐の恩賞として阿波国竹原荘で安宅氏と共に地頭職を認められ、紀伊水道を股に掛けた水軍領主となった。
 応永八年(1401年)周参見氏は荘内を見下ろす高所に藤原城を築いたといわれる。
 なお周参見氏は安宅荘を治めていた安宅氏とは同族であり、安宅氏より度々養子を迎え家名を存続させた。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めには恭順することで領土を安堵され、朝鮮出兵時には秀長軍の一員として従軍し戦功を上げた。
 慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦では西軍として参戦したが敗れ、当主主馬太夫は捕らえられ慶長七年(1603年)京都で牢死したという。
 大阪夏の陣では安親が大阪方として馳せ参じたが、泉州山中で陣を張り待機中に大阪城が落城、捕らえられ伊勢桑名藩藤堂高虎館で監禁された後に許され帰農したという。

久木小山氏

 鎌倉後期の元弘元年(1331年)小山下野守高朝の子経幸・実隆兄弟は執権北条高時の命で下野国より上洛、やがて熊野に入って沿海警固の任についたといわれ、このとき実隆は牟婁郡潮崎荘古座浦に、経幸は牟婁郡富田郷に居住したという。 長禄二年(1476年)紀伊守護職である畠山氏の内証により政長方であった小山氏は義就方の愛洲氏を攻め、目吉良城、衣笠城、龍口城(田辺市)を次々と攻め落とすなど活躍する。
 天文三年(1534年)畠山稙長が命令に従わない龍松山城主山本氏討伐のため、山本氏家臣内河氏が拠る鴻巣城(白浜町)攻略に小山式部大輔が出陣を命じられ、多くの犠牲を出すもこれを落としている。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めには恭順したと思われ、天正十九年(1591年)の朝鮮出兵には小山氏も参戦している。              

古座小山氏

 鎌倉後期の元弘元年(1331年)小山下野守高朝の子経幸・実隆兄弟は執権北条高時の命で下野国より上洛、やがて熊野に入って沿海警固の任についたといわれ、このとき実隆は牟婁郡潮崎荘古座浦に、経幸は牟婁郡富田郷に居住したという。
 南北朝時代には、実隆は始め北朝方であったが、後に南朝方に属し紀伊守護職であった畠山氏の内訌には政長方として活躍する。
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めに敗れたが、許され小山隆重は八百石を知行したという。
 しかし慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦では西軍に身を投じたため改易となったが、紀州徳川家初代藩主頼宣より大島浦瞭哨所において異国船の遠見番を主任務とする十人扶持の地士として家名を存続させたという。           

高河原氏

 高河原氏は高川原、高瓦とも云い、熊野水軍として古座川河口左岸にある塩崎荘中湊を本貫地とした。
 高河原氏の祖は平清盛の嫡孫小松中将維盛の説と、阿波忌部氏の後裔とする説がある。
 南北朝時代は伊勢国司北畠氏に仕え、南朝方として各地を転戦し活躍する。
 天正七年(1579年)奥熊野を統治していた堀内安房守氏善は、虎城山城(串本町古座)攻略の前線基地として佐部城(串本町佐部)を築き、家臣である椎橋権左衛門を入れた。
 これに対して高河原貞盛は、小山氏、安宅氏、目良氏、山本氏、脇田氏ら口熊野の国衆に援軍を求め、佐部城より南西約500mの場所に岩屋城(串本町佐部)を築き対峙した。
 しかし貞盛らは苦戦を強いられ敗北寸前に陥ったが、家臣である浅利平八が鉄砲6匁玉を使って櫓上で指揮する椎橋権左衛門を討ち取り形勢は逆転し、佐部城は落城したという。
 これにより高川原氏が下里川から西を領有し、堀内氏は那智浜の宮より東を領有するよう改められた。
 高河原氏は関ヶ原の戦いで西軍に属したため浪人となったが、紀伊国主となった浅野氏に子の小平太喬盛と共に仕えたという。  
          

色川氏

 色川氏の祖は平維盛で、源平合戦に敗れた維盛は高野山に入り、そこから紀伊国内を落ち延び、色川郷の豪族色川左衛門佐に匿われたという。     
 色川郷に落ち着いた維盛は二人の男子をもうけ、嫡男盛広は清水権太郎を名乗り後に色川に改姓した。     
 盛重から五代孫の盛氏は南朝方に属して忠功を重ねて、建武四年(1334年)天皇より綸旨を賜ったという。    
  戦国末期には堀内安房守氏善が勢力を拡張し、色川氏が領有する色川郷や太田川流域に侵攻したため、色川兵部は鳴滝城(那智勝浦町色川)で防戦、更に平野越から攻めかかる堀内勢を石攻めによって撃退したという。    
 また翌年に氏善は嫡男行朝を大将として平野から攻めたが、色川勢はふたたびこれを撃退している。     
 天正十三年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めに色川氏は恭順したため所領を安堵され、天正十九年(1591年)仇敵である堀内氏善も秀吉麾下の大名となったため、ついに色川氏は堀内氏に降ったという。    
 文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵には熊野からは堀内氏善をはじめ、色川兵大夫、小山石見守、高瓦帯刀らが従軍したが、色川氏は堀内氏との確執があったため氏善には従わず、秀長の家老藤堂高虎に従い朝鮮各地を転戦した。      慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦には、西軍に身を投じたため牢人となったが、元和五年(1619年)紀州徳川家付家老である新宮城主水野氏に仕えた家名を存続させたという。

堀内氏

 堀内氏の熊野統治は堀内氏虎により寛正元年(1460年)頃より進められ、天文の末(1550頃)、内紛により衰退した有馬氏に次男若楠(後の氏善)を養子に送り込み有馬氏の乗っ取りに成功、天正二年(1574年)氏虎が没すると氏善が跡を継ぎ佐野に殿和田城(新宮市佐野)を築いた。
 その後氏善は三木城(三重県尾鷲市)や紀伊長島城(三重県北牟婁郡紀北町)を攻略し、熊野三山を中心に奥熊野を支配していた七上綱(熊野別当に代わって熊野を統治した七家)を屈服させ、西は太田荘田原(串本町田原)から東は長島郷錦浦(三重県北牟婁郡紀北町)までを領有し二万七千石(実質六万石)を領有したという。
 天正十九年(1591年)豊臣秀吉より熊野統治の支配権を与えられた氏善は、殿和田城から新宮城(新宮市)に居城を移した。
 しかし慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦で、石田三成方として西軍に属し、兵三百五十人を率いて伊勢口に侵攻したが、西軍主力部隊の敗走を知り新宮城に帰城したが徳川方の桑山一重に攻められ所領を失った氏善は海部郡加太村(和歌山市加太)に蟄居し、その後肥後国加藤清正の宇土城代を勤め元和元年(1615年)熊本城内で没した。
 氏善の嫡男行朝は浅野氏に仕えたが、慶長十九年(1614年)大坂冬の陣が 起こると弟の氏時、氏久と共に大坂方の招きの応じて大坂城に入った。翌年の夏の陣で豊臣家が滅亡すると大坂城から退去時に、千姫一行と遭遇した氏時は、一行を護衛して家康の本陣に送り届けたことで罪を許され、旗本に取り立てら家名を存続させたという。

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