中山城(なかやまじょう)

所 在 地  西牟婁郡白浜町田野井
標   高  38m
比   高  30m
築 城 者  田井氏
築 城 年  不明
  式  丘城
遺   構  曲輪 土塁 石垣 堀切 横掘 虎口
登城時間  10分
 

歴 史

 室町時代に榎本判官直光がこの地を領し、後に姓を田井氏と改めた。
 田井氏は安宅氏被官となり、田野井地区中央の標高38mの丘陵部北側に城を築いた。 
 丘陵南側にある春日神社は、天文15年(1546年)安宅玄番亮直重と田井氏が連名で社殿造営についての棟札が残されていることから、この城はそれ以前に存在していたと思われる。
 江戸時代に書かれた軍記物「安宅一乱記」には、田井備後守が安宅玄番亮直重に攻め滅ぼされたと記されているが詳細は不明である。

   

現 状

 日置川の旧流路と新流路が形成した谷によって造られた単独丘陵の北側に城跡がある。
 城跡の東側に案内看板が設置され、そこから城跡までは10分ほどで到着する。
 中山城は丘陵の南北に主曲輪と二ノ曲輪が配置され、北、西、南側に空堀や土塁を巡らすなど防御性が高く、平地に築かれる居館の特徴である方形単郭形式をそのまま丘の上に移したものと考えられていたが、平成24年の発掘調査では曲輪内の遺物が少なく、また建物の痕跡や確認されなかったことから、常時は東側麓に屋敷を構え、儀式や有事の際などに使う詰城の機能を持った丘城であったと推定されている。
 遺構は二ノ曲輪西側に土塁と補強に用いた石積が残されて、北側には約50mの長さがある二重の堀切や主曲輪西側には腰曲輪と横堀が形をよく残している。
 中山城は中世丘城の形を非常によく残している県内でも有数の城跡である。

写 真

                                 
登城口 主曲輪
主曲輪土塁 二ノ曲輪
二ノ曲輪土塁 二ノ曲輪虎口
二ノ曲輪石垣 西側空堀
北側空堀 主曲輪切岸
西側武者隠しと空堀 西側帯曲輪
東側帯曲輪 南側曲輪
東側竪堀 案内板


経 路

  

地 図




紀南地方の城跡