虎松山城(とらまつやまじょう)

所 在 地  東牟婁郡串本町和深
標   高  110m
比   高   95m
築 城 者  村上氏
築 城 年  不明
形  式  山城
遺   構  土塁 堀切 横堀 竪堀 虎口 
登城時間  40分
 

歴 史

 築城者は周参見城主周参見氏の一族である村上氏といわれ、平時は南西に約800mの位置にある御高屋敷を居館とした根小屋形式の城であったと思われる。 
 天正13年(1585年)羽柴秀吉の南征軍に対し当主村上傳十郎は湯河氏らと共に中辺路大坂峠で戦い、その後羽柴秀長に仕え朝鮮出兵にも従軍し、和深浦、里川五百石余りを知行した。
 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で西軍に加担したため所領召し上げとなったが、その後和深八幡神社の神主を代々勤めたという。

 

現 状

  国道42号線から古座川方面に県道39号線を約1km進むと、和深川と鹿淵根川の合流点にある標高110mの虎松山に城跡はある。
 県道から脇道を入り川を渡る仮設橋から斜面を登ると虎松山城に達する。
 虎松山城は南北に2つの曲輪が堀切を隔てて背中合わせに築かれているなど特徴がある縄張りである。
 南側にあるのが主曲輪であり、東西15m、南北30mの規模で、周辺を2mほどの大土塁が囲み、東側には北側にある二ノ曲輪に通じる虎口が開いている。
 北側にある二ノ曲輪は、東西10m、南北20mの規模で、低い土塁が一部残されている。
 主曲輪南側には帯曲輪があり、そこから東側に向けて延長60mほどの横堀が掘られている。
  二ノ曲輪から北側尾根に向けて堀切が5条により遮断され、尾根斜面には畝状竪堀群により横移動を妨げ、また北側尾根上には県内城跡に例がない竪土塁が2条築かれるなど、防御性を高めている。
  この城が築かれた年代は不明であるが、羽柴秀吉の南征時に大規模な改修が行なわれたと思われる。
  紀南の小さな集落にある城跡であるが、土木量の多さと非常に特徴のある縄張り、また当時の姿をそのまま残した遺構など一度訪れる価値がある城跡である。

 

写 真

                                 
登城口 南東尾根堀切
南東尾根堀切 三ノ曲輪
主曲輪東側横堀 主曲輪東側横堀
主曲輪 主曲輪大土塁
主曲輪虎口 主曲土塁石積
主曲輪と二ノ曲輪を遮断する堀切 二ノ曲輪
北側尾根堀切 北側尾根堀切
北側尾根畝状竪堀群 東側竪堀
北側尾根連続堀切 北側尾根竪土塁

経 路


   

  

                                

地 図






紀南地方の城跡